ヴィクトリア朝と屋敷とメイドさん

家事使用人研究者の久我真樹のブログです。主に英国ヴィクトリア朝の屋敷と、そこで働くメイドや執事などを紹介します。同人・出版活動の報告を含みます。

『君の名は。』感想(ネタバレあり)





新海誠監督の最新作『君の名は。』を見てきました。新海誠監督の作品をきちんと見始めたのは2007年の『秒速5センチメートル』がきっかけでした。当時、この作品の第1話がYahooで公開されており、その桜の描写と、『秒速5センチメートル』という言葉、そして描かれた新宿の風景に興味を持ち、公開時は劇場まで行きました。桜、大好きなのです。そこから、過去作品を一気に見ました。



その後、新作が出るたびに見ていました。そして最近、久々の新作ということで映画より先に出た小説版を読み、公開初日に劇場へ行きました。今回は小説版を先に読んでからですが、「あと少しだけ」に届いた物語に、接することができたように思いました。そして、時間を経て遠ざかっていく物語から、近づいていく物語へと。



劇場の客層は幅広く、男女比が結構近しかったように思いました。全体には学生や20代前半が多かったです。自分自身は物語を楽しむ気持ちがありつつ、今回、新海誠監督はどういうふうに物語に決着をつけるのかが、とても気になっていた。で、多分、そういう心理で見る人を想定した展開もありました。



小説を先に読んでから映画を見て驚いたのは、小説では主体的に描写されなかった東京の舞台が描かれた際、知っている景色が多かったことです。こういう「小説」と「映像」といった表現手段の違いによって生じる驚きは、結構、好きです。個人的には、新宿や代々木、四谷、千駄ヶ谷、六本木など、見知っている景色が美しく描かれて、「桜の美しさ」に通じるものがありました。特に新宿は大学時代や会社通勤で20年以上使っていますし、新宿での買い物も多いので、だいたいが見知った場所でした。今日映画を見に行く時に通った道も、写り込んだ映画館も、六本木ヒルズも、国立新美術館も、代々木駅のホームも、様々な場所も。「仕事」を象徴するオフィスビルは、『秒速5センチメートル』同様に、西新宿のビル群で、そこは原風景のようなものなのかもしれませんね。



ということで、以下、ストーリーに触れるネタバレでの感想です。改行します。




































































想い人と出会えた主人公

端的に言えば、新海誠監督作品の共通テーマと感じていた、「ここではないどこかにいる誰かを探すことで、目の前よりもそちらの世界に手を伸ばしてしまう」「理由のない喪失感」「現実の居心地の悪さ、欠落感」。その要素を小説版では「あと少しだけ」と表現していましたが、そこに手が届いた作品だったと思います。今回、主人公はその欠落の理由を持ち、かつその欠落を埋める想い人と出会うことができました。



秒速5センチメートル』ではその表現が端的で、中学時代の初恋が強すぎたが故に、少年の方はその後も彼女の面影を探し続けて、それを自分の心の中に置いたまま、高校時代もそして成人してからも、人と付き合っていても傷つけてしまう結末を迎える展開となっていました。それはさながら、呪いのようでもありました。



ほしのこえ』は別離から始まって二度と会うことができない関係で、「私たちは、たぶん、宇宙と地上にひきさかれる恋人の、最初の世代だ。」とのフレーズに全てが表現されています。次の『雲のむこう、約束の場所』も恋心を抱いていた少女が突然消えてしまい、彼女の行方を捜し、取り戻すために行動する少年が主人公でした。



最も強い印象を残した『秒速5センチメートル』で、結局、第1話で強く結ばれたはずの少年・貴樹 と少女・明里は、その後、別々の人生を歩みました。ラストシーンでふたりは踏切ですれ違い、出会えそうになりますが、通り抜けた電車が邪魔をして、貴樹は足を止めて電車が去るのを待っていたものの、明里は去っていき、お互いの顔を見ることはかないません。



「物語」の解釈によりますが、「あれ、ここで出会わないのか」と思ったものの、 [小説]『秒速5センチメートル』を読むと、貴樹の方は「明里とすれ違っていたならば、奇跡」と肯定的に捉えて、それからの一歩を踏み出していったように見えました。



その後、『星を追う子ども』は宮崎駿監督作品的な世界なのかなと思いつつ、別の世界・アガルタへと導かれていきます。この作品もその点では、「目の前の現実では得られない世界」を求めて、「ここではないどこか」へと旅立っていく話です。現実に喪失感があり、それを補完するものとして、「運命の人」「運命の場所」(宇宙空間や別世界)を希求して、現実よりも優先してしまい、今の自分を幸せにすることを許せないような強迫観念に似たような。



続く『言の葉の庭』では、これまでと表現が少し変わったと思えたのは、男子高校生と年上の女性の高校教師が気持ちを通わせた後、別れを迎える選択をした高校教師を、男子高校生が追いかけて、繋ぎとめようとしたことです。ここで主人公は自ら動き、その先がどうなるかはさておき、人と人が結びつくことを選ぼうとしました。



今回の『君の名は。』は、「少年と少女が出会う」という物語を描き続けたこれまでの作品の構図を持っており、主人公の少年が「運命の人・ここにはいない誰かを求め続けて、喪失感を抱える」という、これまでと共通した生き方をするのか、しないのか、新海誠監督がどういう描写を選択するのかが、個人的な注目点でした。


時間の経過の仕方と描写の変化

同じテーマが、形を変えて、その表現の仕方が歳月とともに変わっていき、広がっていき、響いた音によって作品自体も変わっていって。そんな「ほしのこえ」からの16年で描かれた円環を、感じ入る次第と、Twitterで感想をつぶやきました。これを言語化しておくと、最初の作品 『ほしのこえ』は時間と距離が隔たって行き、それは二度と戻ることがありませんでした。こうした「存在をお互いに自覚しながら、会えない」ことは、作品の根底に流れる喪失感にも繋がります。



今回の『君の名は。』は同じ時間をテーマにしつつも、終わった過去の時間を書き換えることで、現代の未来を書き換えていく展開で、その辺りは、不可塑的だった物語が、16年の歳月を経て、可塑的になっていったこともまた、上記に記した主人公が抱える喪失感が解消されるかとあわせて、大きな変化だったように思います。



かつ、小説版のあとがきを読むと、今回の作品は音楽をプロデュース・楽曲提供したロックバンドのRADWIMPSや映画監督、プロデューサーなど多くの方と作り上げたことで、作品の方向性も変わったのではないのか、と思えました。




小説は一人で書いたものだけれど、映画はたくさんの人によって組み立てられる構造物である。『君の名は。』の脚本は、東宝(映画会社です)の『君の名は。』チームと数ヶ月にわたり打ち合わせを重ねて形にしていったものだ。プロデューサーの川村元気さんの意見はいつもキレッキレで、僕は時折チャラいなあと密かに思いつつも(重要なことも軽そうに言う人なのです)、常に河村さんに導いてもらっていたと思う。(小説版より引用)


こうした点も鑑みると、一人で制作を始めた作品が広がり、その自身の発した作品によって多くの人に響き、動かし、その反響を自分自身も受けて、作品表現が変わっていったのかもと、思えました。


小説版と劇場版で最も驚いた場所

小説版と劇場版で、それぞれ「新海誠監督のこれまでの作品を知っている」からこそ、「え〜」と驚かされる箇所がありました。



小説版では成人した立花瀧(主役の少年)が、カフェで結婚するアベックの会話を聞きます。ここで「てっしー」という名前が出てて、これまでの新海誠監督作品のファンとしては、「え? 宮水三葉(主役の少女)とてっしー(三葉の高校の同級生)が結婚したの?」と一瞬、思ってしまいます。これがアニメでは映像で描かれているので、てっしーの結婚相手がもうひとりの高校の同級生・名取早耶香とわかります。



一方、劇場版の罠は、新宿警察署近くの歩道橋で雪の日にすれ違う、成人後の瀧と三葉の描写です。小説版では上記のカフェのエピソードの後、瀧と三葉は運命的な出会いをしていますので、そのふたりが最初にすれ違う歩道橋での描写が出会いのシーンになると思っていたものの、片方が振り向くと片方が背を向けて、お互いがお互いを意識しつつ、結局、ここでは別れてしまうのです。



「あれ、これはもしかして、『秒速5センチメートル』展開ですか?」「小説版と劇場版は違うエンディングですか?」と思いこまされそうになるものの、その後のシーンで、ふたりは出会うことができました。非常に主観的ですが、ここでふたりが出会うシナリオが作られた点で、新海誠監督作品で描かれるものも、変わってくるのではないかと思えたのです。



「ボーイミーツガール」作品として、主人公がようやく始まれるスタート地点に立てる結末を迎えられたことが、その作品が作られたことが、これまでの作品のファンとしては感想を書かずにいられないものでした。




あとすこしだけでいい、と俺は思う。
あとすこしでいい。もうすこしだけでいい。
なにを求めているのかもわからず、でも、俺はなにかを願い続けている。
あとすこしでいい。もうすこしだけでいい。
(小説版より引用)


この「なにかわからないなにか」として「あとすこしだけ」を願い続ける気持ちは、『秒速5センチメートル』を代表として感じた喪失感の描写の根底にあるものでしょう。その喪失感がようやく解消する、そのあとすこしだけに手が届く、それが『言の葉の庭』を経て、新海誠監督作品に感じられたことでした。届くことを、選んだのだなと。



この次の作品で、どのように広がっていくのか、楽しみです。



そして、この作り手としての表現の変化から想起したのは、ドストエフスキー作品です。



『白夜』や『虐げられた人々』、『罪と罰』、『悪霊』など、ドストエフスキー作品の登場人物たちの中には、「幸せになることを恐れている」「幸せになる選択をするならば、すべてをめちゃくちゃにしてしまう」ような強迫観念を持っている描写もありました。



しかし、最後の作品『カラマーゾフの兄弟』で登場した主役たるアリョーシャ・カラマーゾフは、ドストエフスキーの作品とは思えないほどに、人と人の間に生き、行動的で、誠実でした。そうした、ドストエフスキーのメインキャラクター描写の変化に象徴されることに似ているかもというのが、今回の映画を見て感じた、自分の中で最もしっくりくる感想でした。


映画『小さいおうち』感想 昭和前期の女中がいた時代

2010年に『小さいおうち』〜昭和前期の「メイド」が主役の直木賞受賞作とブログで取り上げた作品が、山田洋次監督の手で2014年1月に映画化しました。先週、映画を見に行きました。





豊かで色彩あふれる昭和前期と視点の相対化

原作に描かれた戦前の昭和の暮らしを伝える素晴らしい映画でした。あらためて映像化されると昭和モダンの生活様式の豊かさ、女中が雇用できた時代背景は遠くに過ぎ去ったのだなぁとも実感できます。家の中の様子、キッチン、玄関のつくり、生活用品、おもちゃや絵本に囲まれた子供部屋など、断片的にしか知らない情報が、視覚に強く訴えかけてきます。



原作を含めて、暗い雰囲気が強く伝わっている昭和の時代を、「昭和モダン」として描き、その当時を生きた人の視点で伝えるという構造も作られています。物語では現代と過去と視点が交錯し、「平井家で戦前に女中を務めた時のタキ」と、「現代まで生き残り、大叔母としてタキを慕う青年とのアパートでのやりとり」が入り混じります。



この現代パートが、「タキの記した自伝を読んで現代の青年が抱く昭和イメージで感想を述べる」機能を果たしています。そこでは、歴史的な知識として戦前を学ぶ世代と、タキのように戦前を生きた庶民の世代による情報の差から生じる、「見える世界」のギャップが発見のような面白さになり、また「タキの視点で見た昭和の華やかさ」を際立てています。



『小さいおうち』で描かれた東京の豊かさを見たときに、「江戸東京たてもの園」で出会った案内役のボランティアを務められていた品の良いおばあさんが、「戦前の暮らしは良かった」とおっしゃっていた印象的な言葉を、思い出しました。裕福な家のお嬢様だったのでしょうね。こうした生活を彩ったいくつかは現代にも通じており、自分が生きていた「昭和」(1976年、昭和51年生まれなので12年は昭和を過ごす)がその延長線上にあったのだろうなと、感じます。



少女たちの昭和 (らんぷの本)

少女たちの昭和 (らんぷの本)



昭和 台所なつかし図鑑 (コロナ・ブックス)

昭和 台所なつかし図鑑 (コロナ・ブックス)





この2人による現代のやり取りも懐かしさを覚えるもので、タキが暮らすアパートが昭和の匂いが残る生活風景で、現代を生きるタキが住むアパートは、ある意味で、豊かだった昭和の時代の生活の名残で、古いガス給湯器や石油ストーブなどで囲まれた暮らしが象徴的に描かれています。それは、30年以上前には当たり前にあった光景でしょう。ある意味、私が小学生か中学生ぐらいの頃には黒電話が当たり前にありましたし、テレビもチャンネルを「物理的に回す」のが普通でしたから……



タキがいる暮らしは時間から取り残された感じもしますし、一人暮らししていた祖母を思い出すことで、老いてからの孤独さが切なくもありました。そして、タキが亡くなった後、アパートでは荷物整理が行われます。その光景こそ、終わってからすでに四半世紀(25年)も経過する昭和への追悼のようにも、思えました。この点で、作品は、「終わった戦前」と「現代」だけの対比に留まらず、戦前戦後を含む「昭和」という時代の終焉を象徴するのでしょう。私は、自分の人生のだいたい1/3を過ごした「昭和」が終わったと、寂寥を抱きました。この感傷的な気持ちは、ヴィクトリア朝エドワード朝的な暮らしを映像作品として消費する英国人の心理(どれぐらいの人がそう感じるかは知らないけれど)に似ているかもしれません。



その点では、宮崎駿監督の最新作『風立ちぬ』にも、同じような雰囲気を感じました。


女中がいた時代

今回、秀逸に感じたのは女中描写、「女中」という存在の演じ方です。でしゃばらず、話しかけられてもうつむき、返事も十分にできない。やや卑屈に見えもするし、言語コミュニケーションが一方通行になってしまっている様子は、別の生き物に見えてしまえなくもありません。



主人との接し方を教えられていないのでどうしていいのか反応に困っているような、透明になりそうな描写がありつつも、その一方で雇用主家族の食事に給仕した際は一緒に食事こそしないものの、席の端で給仕に控えつつも家族の団欒に混ざって一緒に笑っていたりと、日本独自の女中文化を感じるものがありました。



女中の立場、奉公の要素を残す雰囲気、そして狭い女中部屋での自分の時間の過ごし方は、なんともいえません。映画公式サイトでは「おうち訪問企画」があり、家の中を練り歩けます。台所風景を訪問することも出来て、家マニアには泣けます。



http://www.chiisai-ouchi.jp/indoors/flash/_chiisai-ouchi.html



英国カントリーハウスのHPでもよくある趣向ですが、最高ですね。しかし、女中部屋に行けないのです、という残念さがあるので、『コクリコ坂から』と家事使用人からの脱却を迎えた日本、ジブリ作品の家事描写についての雑感に載せた女中部屋写真の間取りなども載せておきます。お風呂場やトイレ、玄関など出入りが多かったり水周りに近かったり、或いは日もそんなにあたらない場所にあったりと女中部屋は狭く不自由なものでしたが、まず昭和のそこそこ裕福な家庭にこうした部屋があったことは、あまり知られていないことでしょう。








以下、資料と、もっと細かい資料をまとめたものです。



女中がいた昭和 (らんぷの本)

女中がいた昭和 (らんぷの本)



近代日本の女中(メイド)事情に関する資料一覧


「昭和」という消費

『小さいおうち』、そして『風立ちぬ』を劇場で見ていて思ったのは、若い人の少なさ、或いは高齢者の多さです。Twitterをしていると自分が観測している範囲での流行が見えることもありますが、新聞広告やメディアの扱いはそこそこ大きい『小さいおうち』が、自分の観測範囲でまったく話題になっておらず、劇場に来る方のほとんどが60〜70歳以上の方でした。かつ、私は初日に見に行ったものの、劇場がガラガラでした。



ALWAYS 三丁目の夕日』や、NHK朝の連続テレビ小説ゲゲゲの女房』『おひさま』『カーネーション』などが放映された頃から、「昭和回顧」という消費があるのかな、と思い始めていました(『永遠の0』もこのジャンルになるでしょうか)。前述した、『コクリコ坂から』と家事使用人からの脱却を迎えた日本、ジブリ作品の家事描写についての雑感も、昭和の時代、オリンピックを迎える日本の成長期を描いたものでした。そして、昨年あたりから、BS放送では昭和の黄金時代をリアルタイムで伝える『男はつらいよ』(寅さん)シリーズが毎週土曜日に放送されています。



昔の生活を賛美するというわけではないものの、懐かしかった、古きよき時代だった、人との繋がりがあったなどと、現代失われたものがそこにはあるように描かれることもありますが、公害はひどく、犯罪率も高く、経済格差も男女格差も大きかったので、現代の方が改善しているものも多くあって一概に比較は出来ませんし、仮に美しく伝わっていても、それはイメージの断片に過ぎないでしょう。



『小さいおうち』は、ある意味で、私のような世代ではなく、昭和を長く生きた世代をターゲットにした作品だと思います。それは、映画監督が寅さんシリーズの監督を務めた山田洋次監督によって作られている点からも垣間見えます。作品世界も私の目で見たものと、年配の方が見たものとでは、ずいぶん違うでしょう。倍賞千恵子さん演じる老いた大叔母タキのアパートに顔を出して「おばあちゃんこ」のような青年を妻夫木聡さんが演じている光景は、客層を見るに、「老いた境遇のところへ遊びに来るそんな子、孫がいたら」的な願望も感じるものでした。



そして、『小さいおうち』のキャストを見ていくと、山田洋次監督の映画シリーズとのつながりが非常に強くなっています。『東京家族』。キャストを見て驚いたのは最新作『小さいおうち』とのキャストの重複です。



http://www.tokyo-kazoku.jp/about/cast/



橋爪功さんと吉行和子さんは『東京家族』でも『小さいおうち』でも夫婦。『小さいおうち』では姉弟となる妻夫木聡さんと夏川結衣さんは、『東京家族』では義理の姉弟、この2人の父役(『小さいおうち』)の小林稔侍さんは『東京家族』では橋詰功さん演じる主役の友人役。林家正蔵さんと中島朋子さんなども出演しており、『東京家族』と『小さいおうち』は、一緒に見るとより繋がって楽しめるのかもしれません。



そして『寅さん』出演でおなじみの倍賞千恵子さん演じる現代の「タキ」。これは、寅さんの「さくら」の先の時間軸として見られるかもしれません。山田洋次監督作品を軸として映像作品を通じて描かれる「昭和」シリーズと言う点で見れば『東京家族』に続いて、「昭和完結編」なのかなとも。パンフレットには、『東京家族』に出演の子役や、『寅さん』シリーズに出ていた方もいらっしゃいました。また、『女中がいた昭和』(http://spqr.sakura.ne.jp/wp/archives/1459)の小泉和子さんの寄稿も載っています。


終わりに

私のブログを見る人には、オススメです。女中とメイドの関連性と相違点という視点がありつつも、そもそも「過去の暮らしに興味がある」人が多いとも思います。そうした方たちだけではなく、年代的に「昭和」に生まれて幼少期を過ごし、「平成」を生きている私と同世代の人たちにも面白い作品だと思います。



個人的には、先に原作を読み、全体の大筋やシナリオを理解してから、原作との違いを劇場版で楽しむというのが良いように思います。感じ方はそれぞれですが、映像で伝えられる密度とテキストで伝えられる密度は方向性が異なりますので。



小さいおうち

小さいおうち





始まり方と終わり方としては、映画のほうが好みでした。


余談

『小さいおうち』の音楽は、スタジオジブリ作品で音楽を手がける久石譲さんでした。これまでに記したように、『風立ちぬ』(戦前)、『コクリコ坂から』(戦後・高度経済成長期)の描き方を鑑みるに、意外と『小さいおうち』がスタジオジブリ作品としてアニメ化すると、若い人も見るのかな、と思いました。テレビや新聞であれだけ広告を見ていたのに、初日でとても空いているのが本当に驚きだったのです。



あぁいう昭和モダンの一軒家に住みたいと思ったものの、風通しもよく、寒く、掃除する場所も多いので大変そうだなぁと。残っていたとすると山の手で、土地代だけでも大変そう。アリエッティで出てきた家も好みではありました。



そもそも縁側のような箇所は掃除が大変で、様々な工夫の末に現代の家の構造が組みあがっており、アパートメントもその時代には優れた設計思想の反映だった点を鑑みつつも、ルンバが存在しえる今にあって、実は昭和的な家は昔と条件が違うかもしれません。



古い家を借りて、蔵書を置く・預かるなどをして、会員制にして利用できるようにするのは面白そうだなぁ。メイドさんがいるとより有難いけど。会員20人月1.5万円で、かつ「仕事場」もしくは「倉庫」として使う人がいてその人にとって経費扱いになると、現実的ではないかと。



東京R不動産には、洋館での日々という物件が。



おまけで、昭和前期の映像がyoutubeにあったので載せておきます。



]『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』2度目と映画館での拍手

ということで、昨日、行ってきました。前回『序』を見たとき、アニメ版『銀魂』にはまっていたので、碇ゲンドウを見ても、「マダオ、何真面目に仕事してんの?」と思いましたが、最近まったく『銀魂』を見ていなかったので、そのような視点はすっかり忘れていました。



というよりも、思い出せないだけ、画面に夢中になっていたのでしょう。



2度目は2度目で楽しかったですが、自分には何よりアクションの動きが気持ちよかったですね。エヴァが走るだけでも、戦うだけでも、震えます。



使徒のギミック表現も、「これ考えた人、すごいなぁ」と、表現の幅が本当に広いのが心地いいです。その辺りへの感動も深くありつつ、展開を知りながら見てもまた心揺さぶられる自分がいました。気づいたら、また終わっていました。



「奥行きを感じる声の配置」もすごいと思います。劇場でアニメを見るのが久しぶりなのですが、登場人物のポジションごとに、同じ場所にいても声の響きや奥行きが違うんですね。この辺りのこだわりも、さすがです。



役者さんも本当に素晴らしく、本当に欠員が出なくてよかったです。あと、佐久間レイさんの名前を久しぶりに見ましたが、どの役かは分かりませんでした。アナウンスでしょうか。懐かしさがありました。



特筆すべきほかの事項は観客の反応です。前回もそうですが、今回も自然と会場で拍手が起きました。今まで映画館で拍手を経験したのは、「出演者舞台挨拶あり」のような「初日・濃いファンだけ」が集まる場所での出来事だけでした。



確かに手を叩きたくなります。



客層も若い大学生20代前半っぽい人が多く、エヴァのリアルタイム世代は意外と少ないと思うのですが、広い世代に様々な経路で伝播しているんですね。



あと、今回のSDATを見てから、もう一度、本放送を見直すと、見方が変わります。本放送時にあった設定なんでしょうけれども、この話は今まで知らなかったので、今回初でしょうか?



このペースで見に行くのも何なので、次はコミケ原稿の入稿後にでも行きたいなぁと思います。


3部作ではなく、4部作?

動員が100万人目前と言う記事を見ました。

http://mainichi.jp/enta/mantan/news/20090706mog00m200053000c.html




序破急」だと思い込んでましたが、その先もあるんですね。

まだ道半ば……


『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』感想(ネタばれなし)

作品は、圧倒的でした。



知人たちが軒並みべた褒めしているので気になって、昨日の映画の日に行きました。これほど知人が揃いも揃って映画の話題をすることはないので。二度行く人もそこそこいました。まだ上映1週間経過していないのにです。



見終わった後、確かに、何度でも見たくなりました。商品化されたら絶対買います。



面白いとか、感動したとか、そういうのはもちろんあるんですが、この時代でなければこそ、今までのテレビ版や劇場版含めて、見る側も作る側も、この長い十数年の歳月は、今回の映像のためにあったのではないかと思えるほどです。



「スタッフも成長している」「映像で使われる世の中の技術も向上している」「新しい着想の人も加わっているはず」「見る側も成長している」、というのでしょうか。



時間が経過して、かつ成長がなければ、生まれなかったはずです。



日本にいてよかったと思えますし、この作品は、表現が難しいのですが、「日本が今の形で存在していなければ産まれない」はずです。庵野監督が愛した特撮やアニメといった世界、それらの文化的な蓄積もあった上で、才能が結集し、想像力を駆使し、ここまでに仕上がったのでしょう。



一度でもエヴァを見た経験のある方は、今週金曜日の地上波で放送される劇場版「序」を見てから、劇場に行くことをオススメします。



妥協がないというか、命削って作っているなぁというのを本当に感じます。この作品が生まれたことが嬉しく思えるのは、いろんな表現が今まで見たことがなかったり、「これを創造した人すごいな」と素直に思えるものだったり、手を抜いていない、いいかげんじゃない、見る人をなめていないのです。



ただ見た人を楽しませる、驚かせる、圧倒する。



作品そのものからは、真剣にモノを作り、最大の事をしようとする気概が伝わります。真剣に作られた圧倒的な本作には畏怖すらありますが、これだけの作品が存在したことが嬉しく、この気概を自分の中にも取り込み、最高のものを作りたい気持ちになります。



「作らされて作る」でも駄目ですし、「作りたいように作る」でも駄目ですが、「作りたくて、伝えるために作られた」ようにして生まれ、そして見る側も待望した作品になったと思います。特に最後は、「一度、産み落とされた作品」でないと、成立しないはずです。ゼロから見る人と、僕とは感想が違うかもしれませんが、リアルタイムで見たことがある人は、この作品を、祝えると思います。



これほど質が高く、エネルギーが注がれたものを見てしまうと、いかにジャンクフードに囲まれているのかを感じますし、これほどのものはお金だけを目的としたスタイルでは生まれません。竹熊さんの『「ヱヴァ」は品川駅を出発しました(ネタバレなし)』の中にあったような、『今回庵野さんがやっていることは、史上最高レベルの自主映画だ』とも思えます。



竹熊さんのコメントを見る前に、自分が連想したのも「同人」でした。同人誌を見れば、その人の情熱や気概や魂がこもっているかまで、伝わってきます。細部に気を配っていない人、読者の読みやすさを考えていない人……自分も誤字脱字や読みにくさという多くの欠点を持っていますが、少なくとも今回のエヴァには、「作品から、気持ちが伝わってくる」「見る人への最大限のもてなし」を感じます。



以前の劇場版とは、見る人への気持ちが違っているとも。



テレビでの放送終了から十年以上が経過する中、よくスタッフやキャストの方が、良く再結集できたものですし、日本のアニメに限らず、特撮や映像文化の蓄積がなければ生まれず、市場がなければ成立もせず、過去の作品がなければこのスタート地点にも立てず、何よりも再度この時代に作ろうとした庵野総監督の意思がなければ、存在しません。



意思がなくても様々な思惑で存在してしまう映画が多い中、意思がなくては存在し得ないものはまさしく同人的でもあり、竹熊さんの「自主映画」とう言葉に重なるのです。まだ制作は完結していませんが、NHKあたりで、メイキングやインタビューの映像を見せて欲しいですね。少なくともこの映画のために会社を立ち上げたわけで、それは驚嘆すべきエネルギーです。



とはいえ、そこには「大人」としての成長もありますね。関連グッズの売り方やパンフレットに載っていた「映画に出る商品」という、広告媒体と商品開発との連動(携帯とかノートPCとか)が、作品のクオリティとは関係なく、織り込まれています。過去最高ではないでしょうか?



その点では、先ほどの言葉に矛盾しますが、極めて「商業的」です。



とはいえ、お金がなければ好きなものは、作れません。スポンサー探しや「次に繋ぐためのお金集め」も、いい意味でうまくなっています。いいモノを作るためには、いい意味で手段を選んでいません。その結果、素晴らしい映画になりました。



あと、竹熊さんの比喩で言うところの京浜東北線より「新幹線」の方が適切に思えます。路線や見える風景は同じでも、速度と停車駅は違い、そしてその果ても、もっと先へいけそうです。



今この作品を見た人たちの間から、何年後かに、新しい何が生まれてくるでしょう。文化は続いていくんだなぁと感じつつ、本当に、本放送からこの作品、そして次回作まで含めて、壮大な作品とも言えそうですね。結果論ですが、過去は変えられますね、今によって。


あと、公開予定映画の予告編が感慨深かったです。世界の破滅ネタの映画が何本かあり、「破滅させるより、救うとか幸せとかにする映画にしろよ」と思ったものの、エヴァも「世界の危機」ネタですからね。ただ今回映画を見て、前回もそうでしたが、「近未来」というのを感じました。



今の日本の風景を残しつつ、技術が発展していく、未来絵図。



次の公開の内容も含めての作品だと思いますが、とても楽しみですし、あと何度もこの「破」を見に行くでしょう。



個人的にはアスカですが、スタッフだけではなく、劇中でも、そこに生きるキャラたちは変化・成長していますね。見る側も巻き込んだ、壮大な長い物語になりました。