ヴィクトリア朝と屋敷とメイドさん

家事使用人研究者の久我真樹のブログです。主に英国ヴィクトリア朝の屋敷と、そこで働くメイドや執事などを紹介します。

都の表現規制(非実在青少年)、9月審議は延期、12月再提出

この前のコミティア93参加時、同人版の『英国メイドの世界』で巻頭カラーイラストを描いて下さった神奈江淳さんとお会いしました。神奈江さんは東京都の条例(表現規制)が9月に再審議される件の推移を、今後も見守ることを伝えるポスターのイラストを描かれ、コミティアで有志とともに下記パンフレットの配布をされていました。







他に、活動についてのパンフレットもあるようです。



私個人としては表現規制には反対ですし、運用側の恣意的な解釈が入る余地が多いのは問題だと認識しています。過去にヴィクトリア朝の表現規制と作家というのを書きましたが、同人という表現の場で育てられた立場としても、都が表現規制に乗り出すと、表現の機会自体が同人の場で減る可能性があります。



同人は今回槍玉にあがっていないように見えますが、非常に潰されやすい立場です。主に公共施設を利用している同人イベントを開催できなくするのは非常に簡単だからです。



こうした長期にわたる問題は風化しやすくもあり、忘れた頃に成立、という話もありえます。2010/09/08に出ていた朝日新聞記事によれば、規制案は9月提出延期、12月再提出予定とのことで、引き続き、規制の意思は表明されています。今後も注視が必要だと考え、日記にてご紹介しました。


5月はメイド強化月間、復活?

2005年、2006年とメイド関係のイラストの情報を5月限定で集約したサイト「メイド強化月間がありました。毎年、この時期になると「始まるのかな」と思っていてから数年、pixivの方に企画が出ていました。






サイトが更新されるのか分かりませんが、企画自体、楽しみです。



5月×メイド、でいうとメイポール・『エマ』の表紙を思い出します。


エマ 8巻(DVD付き特装版) (BEAM COMIX)

エマ 8巻(DVD付き特装版) (BEAM COMIX)





あ、おまけですが、昨日、メイドに関するコラムを寄稿した日本ヴィクトリア朝文化研究学会のニュースレターが公開されました。告知と詳細は、自分のホームページの方に載せています。ちょうどいいタイミングでしたね。



[ニュース]日本ヴィクトリア朝文化研究学会の会報にコラム掲載


「The Age of Stupid」特別上映会感想と「伝える」難しさ

2008年に「UK-Japan 2008公認ブロガー」となり、イギリスに関する情報を発することに参加していました。イベント自体は2008年で終了しましたがイギリスの情報が欲しいので継続して欲しいと感想を書きました。私のような返信が多かったのか、2009年以降、UK-Japanとしての公式活動はやっていないようですが、時々、企画主催者である駐日英国大使館からイベントの案内が来ています。



長い前置きですが、リアルのイベントへの応募は今までほとんどしませんでしたが、たまたま目に入った上記イベントに応募したところ当選し、先日、上映会に出かけてきました。




なぜ、人類はもっと早くに手を打たなかったのか?



「MCLIBEL」、アカデミー賞長編ドキュメンタリー映画賞受賞作「ブラックセプテンバー/五輪テロの真実」の監督が送る、地球温暖化を扱った大作。



現代でもっとも重要な映画との評判を得る、フラニー・アームストロング監督の「The Age of Stupid」。



イギリスの個性派俳優ピート・ポスルスウェイト演じる“地球最後の男”が、2055年の荒廃した未来から2008年の6本の映像アーカイブを眺め、「なぜチャンスのあるうちに自分たちを救おうとしなかったのか?」と嘆き、地球温暖化防止を訴える。インドで貧困撲滅活動をする青年やイラク戦争で家を失ったヨルダンの姉妹、イギリスで風力発電の開発をする男性などをテーマにした6本のドキュメンタリーやドラマ、アニメなどで意欲的に構成されている。



2009年9/21-22に40以上の国で世界同時プレミアム上映が実施され、大きな反響を呼び、日本でも9月22日(火・休)、新宿バルト9にてプレミアム上映が実施された。



その後、日本での再上映要望の声を多く受け、この度3月より全国TJOY系劇場にて順次公開が決定致しました。



日本版作品HP:http://www.t-joy.net/aos/




いただいたメールマガジンからの引用





ということで作品は地球温暖化をテーマにした映画で、2055年の未来の人間が2008年の映像アーカイブ情報を閲覧し、環境破壊が進み、人類の生存が難しくなった時代の原因を探るものです。この映画は何かを警告する上で重要な「このまま進めば、破滅する」という結末をしっかりと伝えている点では、伝えたいことを伝えられているように思います。


映画は届けたい人に届くのか?

この映画自体に自分が見えない・知らない方向性があると思いますし、地球温暖化の是非はともかく、自然破壊や海面上昇、資源や食物の浪費を生み出す生活習慣や産業構造の見直しを指摘する部分は共感できました。だからこの感想をブログに書くわけですが、上映中に感じていたのは、「この映画は、届けたい人にメッセージを届けられるか」という部分です。



映画の中では「人を動かせるか」という問題を自覚的に捉えていましたが、端的な例が劇中の風力発電への反対運動です。イギリス人男性は地球温暖化の影響をアルプスに訪問した際に目の当たりにし、元々の風力発電技術者のバックボーンがあって、地球温暖化を何とかしようと、地元の州で風力発電の推進を行います。



しかし、地元の住民からは反対の嵐です。景観を損ねることや騒音や振動へ不安、ましてや風力発電が催眠効果を生んで自動車の運転を阻害する的な反対論が出て、提案は否決されました。映画を見るだけでは周囲の「無理解」にあったと解釈できますが、実際には「危機感」を共有できず、「優先順位の変更」を提案できなかった、そのレベルだと思います。同じ価値認識をしていないのですから、反対されて当然です。説得ではなく、まず同じ光景を見ることから始める、それが何かを提案するときの難しさです。



この映画は、どうでしょうか。



「映画がメッセージを届けたい人に届けられるか」の話に戻ると、久我は環境問題について先進的ではありませんし、積極的に情報を収集していません。いわゆる「普通」のレベルです。で、映画の中でもあったように、あるいは映画が提案するような問題意識は、この普通のレベルの人にはなかなか届かないと思います。今回映画を見たのは、本当に偶然です。仮に今後上映されていたとしても、自分から積極的に見に行ったとは思えません。



そうした行いが「The Age of Stupid」かもしれませんが、行動を起こすには危機感を共有する必要があるわけで、いかに正しいことを言おうとも人は動きません。そして、映画の中で図らずも同じことを実証しているシーンを描き出しているわけで、この課題を自覚的に認識した上で宣伝や広報を行っていけるのか(動かない相手を「愚か者だ」と責めるのではなく、相手に情報を伝え切れなかった自分の能力を疑い、改善していく意思があるか)、個人的に注目しています。


「当たり前に思う暮らし」を捨てられる? 家事使用人問題と同一の構造

構造的に面白いと思ったのが、今回のこの話が、自分がメインとする家事使用人の話と繋がるからです。第一次世界大戦後に家事使用人不足が深刻化し、政府は当時問題化していた失業問題解決を行うために、歴史上、初めて本格的に対策を行いました。需要が供給を上回っているので、失業者の女性を家事使用人職に送り込んだり、制服を支給したり、訓練センターを作ったりしたわけです。



しかし労働条件が他の労働者に比べて悪かったこと(雇用主の権限が巨大すぎ、労働時間が未定義な上に、「従う」「礼儀作法」といった他の労働者が強いられない従順な態度の強制や私生活への干渉を受ける)が使用人の不人気に繋がる原因を政府は放置しました。穴の開いたバケツに水を注ぐような振る舞いは結局、何の問題解決にもなりませんでした。



この問題について、同時代の中流階級の女性で、戦時中に使用人職を経験した心理学者の女性は、問題解決には「プロパガンダ」が必要だとしました。ひとつはメイドを見下し、彼女たちに劣悪な労働環境を強いて機械のように働かせる女主人たちの「物の見方」を捨てさせること。これは女主人に限らず、当時の新聞や風刺雑誌、果ては宗教(使用人を正しく導くのが主人の務め)にまで及びました。



もうひとつが、「使用人を必要とする生活を伝統だとする思い込み」です。今、営んでいる生活習慣を『伝統』というけど、そんなのは歴史から見ればわずかな時間にしか過ぎず、仮に生活の変化に適応できなければ人類は滅んでいる。だから、使用人を必要とする思い込みを捨て(心理学者の女性が示すのは、「中流階級の女性は有閑でなければならない」とした、18〜19世紀に流行し、家事使用人雇用を必要とさせた中流階級の価値観)、メイドがいない暮らしを受け入れるべき、と訴えました。



この後者の部分、「使用人がいて実現できる、今の暮らしを当たり前と思い込む価値観」をプロパガンダによって彼女は捨てさせようとしました。実際に同時代には、不足が進行する中で、便利な道具が出現してきたことで使用人の必要性が薄れたり、社会全体的に賃金上昇が生じていたことなどから生活レベルの変更を余儀なくされる部分はありましたが、第二次世界大戦という巨大な衝撃が訪れる直前まで、家事使用人は130〜150万人、第一次世界大戦以前の規模で存在したとされ、改善は成されないまま、ただ第二次世界大戦による大規模なレベルの生活様式の変更で解決されたと見ることが出来ます。


生活様式を変えられる? どの程度までは具体的に見えない

家事使用人問題と、環境問題とは構造が類似していて、「今の生活様式・水準を私たちが変えられるか」というところだと、映画を見て思いました。家事使用人問題は使用人不在で不利益を受ける人が少なく、クリティカルでもなく、問題は解決しないままに問題そのものが消滅しましたが、後の時代に極端な影響を及ぼしていません。しかし、環境問題は数十年先、あるいは数年先に自分たちの命に影響を及ぼす可能性がありますし、今の暮らしを維持したまま解決する「奇跡」(新技術・新資源)の登場を願うだけでは、足りないのでしょう。



こう書くと大仰かもしれませんが、ひとつの事象をある人が問題だと認識し、客観的に見てもそれが本当に問題だったとしても、解決できないことは数多くあります。しかしそのとき、映画の中の風力発電の話が象徴するように、「理解のない他者」を責めることこそが、「The Age of Stupid」に繋がる話だと思います。



この映画は「正しいと思っていることが受け入れられず、惨事を招く」未来を描き、ひとつの固定観念・当たり前に受け入れている価値観を壊そうとする試みを行っていく力を持っていると思いますし、この映画を多くの人に見せようとする試みが、自主上映会の支援によって支援されていますし、ストリーミングもやっているようです。



他にも今後様々なアプローチがあるでしょうが、発展途上国が先進国に「過去にあなた方もやっていたじゃないか。そうして豊かになった。どうして私たちにはさせてくれないのか」と言うはずです。その部分は、この映画だけでは答えにならないと思います。観客に「一緒に考えよう」と提案するものなのだと受け止めました。



使用人問題の話にあるように、現代人が謳歌する生活様式自体は短いものに過ぎません。1920年代の心理学者は「変化に適応できなければ滅んできた。滅んでこなかったのは適応したからで、使用人を必要とする生活様式を捨てなさい」というような話をしましたが、そこと比較するならば、この映画は「適応できない場合の滅びが地球規模で起こる」と、訴えています。



この課題について、自分の生活様式にどう織り込んでいくかは宿題です。とりあえず物を大切に使うことから始めます。


電子書籍・出版業界についての私的なメモ帳

最近、AMAZONKindleで著者印税70%の話や、先日発表されたAppleiPadなどへの期待から、電子書籍に関する話題が盛り上がっています。また、今月には出版社21社による業界団体設立や、下記記事では「ソニー電子書籍端末の国内再参入を検討」するとの話も書かれています。



大手出版21社、電子書籍の業界団体を設立ITmedia:2010/01/14)



自分自身は「同人をやってきている(自分での出版)」「今年、本を出す準備中(出版社から紙で出版)」立場で、こうしたトピックに無関心ではいられませんし、出版業界の動向や現状も理解しておきたいところです。そこで、頭を整理するためにメモを書いていきます。



出版業界専門ではないことと「気づいたこと」のメモなので、後で修正したり、書き足したりします。



電子書籍普及の端緒となりえる電子媒体の話が盛り上がることで、マーケットが拡大することへの期待がまず電子書籍の文脈にあると感じますが、この中にはリアルの書店がどうなっていくかの話はあまり含まれていません。個人としてまったく未知の領域なので、この話の中では扱いません。


[はじめに]文脈の整理

自分でいろいろと考えつつウェブで意見を見ていましたが、自分の目に入る主に発言者は「出版業界関係者」「プロの製作者」です。その文脈として大別すると、2つになると思います。


1:[出版業界関係者]出版業界のビジネスモデル改変への期待

雑感として出版社の売り上げ減少は雑誌の広告収入の減少、部数減少(私が定期購読していた新潮社の雑誌『Foresight』休刊のように)や広告収入に依存しないマンガ雑誌の苦戦、、読者数の減少による部数の伸び悩み、そして昨年目立ったような出版社の倒産、そして返本が膨大な量になっている現実への危機感の中に生まれた議論だと思います。



本の販売2兆円割れ 170誌休刊・書籍少ないヒット作朝日新聞:2009/12/12)



音楽配信などでクリエーターが直接作品を配信する機会を得たり、ユーザの消費行動の変化で売り上げが減少したりした音楽業界との類似構造も指摘されます。また、物理的な本であることから生じる流通や配本、返本もニュースとなりました。



【なぜ本は売れないのか】(上)着いたその日に返本産経新聞:2009/09/20)

日販とトーハン、2大取次が寡占する日本の出版流通事情(Business Media 誠:2009/08/26)



上記エントリへの出版社による流通構造の補足・解説は出版に展望はあるが、○○な出版社に展望はない 出版書店業界事情 ●干場(ディスカヴァー社長室blog:2009/08/27)が詳しいです。



現場の声や広告ビジネスモデル的な話では、以下のようなエントリがあります。



「週刊誌の編集長たちが集まって、週刊誌のこれからを考えるシンポジウム」レポート(さまざまなめりっと:2009/05/16)

メディア化するポータルが瀕死の雑誌を飲み込もうとしているCNET Japan:2008/09/30)



もちろん、構造的な問題が指摘される中、小悪魔ageha」編集長にインタビュー、世の中には「かわいい」か「かわいくない」の2つしか無いGIGAZINE)や、ゲスト:永江朗 第2回「今の出版界でも出来ること」ポット出版)のように、現状で活動する方々の声も興味深いものがあります。


2:[製作者]「発表の場の創出」と「マーケット」

現時点で盛り上がっているのは、「発表の場が出来ること(作品のアップロード)」と、「その作品でマーケットができ、お金を得られること」、この2点だと考えます。



今回、KindleiPadの発表で期待されているのは、第一に「作品の作り手が自分の意思で作品を発表できる」(現在は出版社のフィルタリング:方針や質的な側面と、ビジネス的に「売れないものは作りにくい」)機会ができることです。



今までは印刷手段や物理的な流通網、そのコストで行えなかったことが、製作者自身の手で行えるようになる。これは表現者が経済的に自立し、自分の好きなように表現を行いやすくなる環境へ繋がります。



また印刷代や流通の諸経費が減少することから著者が作品を通じて得る報酬が上昇することへの期待が指摘されます。報酬が得られれば、最近では、AMAZONKindleで著者の取り分を70%とすることが報じられました。



Amazon、Kindleのコンテンツ印税を7割にするオプションを発表(ITmedia:2010/01/21)



通常、著者印税は売り上げの10%とされていますので、その点で製作者が期待するところが多いとの考え方ですが。AMAZONの戦略の分析についてはAmazon印税率を70%に大幅引き上げ、焦土戦に突入。概要と雑感。Amazon70%印税ルールの各条項を深読みする(いずれもfladdict)が詳しいです。



Kindle対応した出版社としてコミックスでは日本から世界に発信:書籍端末『Kindle』にハーレクイン・コミックス(WIRED VISION:2009/10/30)の英語版(元々PC版・携帯版で海外対応していた)がニュースになりましたが、日本語・個人では漫画家のうめさんが販売までの流れと制作の話を、日本初? kindleで日本語漫画を出してみよう企画(難民チャンプ)として公開し、販売を実現されています。



ただ、画像処理されるコミックスに対して、Kindleでの日本語テキストは扱いが異なるようです。Twitter小説/日本語を出版しようとされた方の下記一連のエントリが非常に興味深いです。



Kindle 出版顛末記 その1 Uploadまで

Kindle 出版顛末記 その2 日本では買えない!

Kindle 出版顛末記 その3 出版完了!

初のKindle上のコミック配信完了によせて #kindlejp(以上、活字中毒者の小冒険2:気まぐれ書評で本の海を漂う)



こちらでは「日本語はPDF表示される」(PDF入稿:文字の拡大・縮小負荷)、また「英語で出すこと」(日本語のみテキストコンテンツは駄目)でありながらも、「日本語をそのまま残している」、つまり英語本文+日本語本文では受け付けているようです。この場合、英語読者への対応が第一条件、日本語は「イラスト」的な扱いなのかもしれません。



ライトノベル作家の木本雅彦さんも挑戦されていますが、こちらは日本語のみで、申請を却下されているとのことです。(こちらも画像として入稿しています)



Kindle Storeで小説を出版

Kindle Storeで小説を出版・その後(以上、EARTHLIGHT TECHNOLOGY)



今のところ、日本語対応していないので「日本語と英語を併記」しない限り、日本語小説の受付は難しそうです。ただ、PDF・画像対応であるので、電子書籍のメリットが生きていないのも事実で、ここは対応が待たれるところです。



個人的に、むしろ「英語でテキストを書く」可能性に広がりを感じました。AMAZONの世界中の読者に接する機会を得られる、しかも本を販売できる。この機会は、通常の書籍では考えにくいです。英文を書ける作家は、非常に強くなるんではないでしょうか。



著者の取り分の話とは別に、「印刷しなくなるのだからコストが下がるのではないか」「これまでは基本的に発行部数で印税が生じたが、売り上げ部数になる」ことは大きな変化です。しかし、電子媒体が安くなるかは、まだ制作経験がないので私には分かりません。コミックス、書籍(書籍の種類・内容)で大きく変わるはずです。



Amazon.com: Digital Text PlatformAMAZON内のDTPのFAQを見る限り、HTMLフォーマットレベルです。また、How to Publish a Book on Kindleというところを見ると、Adobe PDF, Word file, plain text file or HTML documentとなっていて、同人経験者には極めて敷居が低いです。本格的なデザインにこだわらなければ障壁は言語のみです。(この言語が一番大きな問題ですが、日本の電子書籍プラットフォームとの大きな違い:個人の出版しやすさへの意識はここにあると感じます。サイトの有料コンテンツ課金・決済システムとして機能しそうでもあります)



値段については電子ブックの配信は紙媒体よりコストが高い、という話/と、そもそも誰が買うのか、アメリカとの出版事情の相違を指摘する電子ブック端末を買うのは誰だろう?(浅倉卓司@blog風味?)のエントリが、参考になります。


[電子書籍市場]存在しているけれど爆発的に普及はしていない

専門ではないのでこの項目は主にリンク集的にですが、元々、電子書籍自体は日本でもビジネスとして起こっています。文庫本や一般書籍、携帯電話やウェブで絶版となったコミックスを読めますし、オンラインだけの雑誌を販売している雑誌社もあります。



ただ、特にコミックス系ではオンラインで作品を発表するものの、ビジネスモデルとしては今まで雑誌が担った役割をウェブに任せるレベルで、課金そのものは実際のコミックス化で行っているところが多いです。コピーからの保護、現在の決済手段や対象との組み合わせ、システム的なコストがあってか、簡易なプラットフォームに欠けています。



wiki電子書籍

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%BB%E5%AD%90%E6%9B%B8%E7%B1%8D



大手出版社が電子書籍化に大きく進みにくい事情は日本の出版社が直面するイノベーションのジレンマ(My Life in MIT Sloan)の解説が、分かりやすかったです。



以下、偏りがあるのは個人の方向性・調査の限界です。いろんなところが既にやっているように思えるので、「出版社」「コンテンツ種類」「配信形式」「端末」「課金形態」を誰かにリスト化して欲しいこの頃です。



問題点としてwikiにあるような複製やメーカーごとによる読み取り規格の相違、コピーコンテンツ、そして課金形態が問題になっていて、ユーザにとっては分かりにくい状況でもあります。


オンラインコンテンツへの課金

Webコミック:GENZO:幻冬舎(『Under the Rose』オススメです)

→コミックスは印刷。所属過去の作品を電子媒体のみでの販売あり。



Under the Rose (1) 冬の物語 バースコミックスデラックス

Under the Rose (1) 冬の物語 バースコミックスデラックス





「Honey Rose」/ダウンロード限定



MAGASTOREiPhoneへの雑誌有料配信)

新潮社/デジタルコンテンツ

講談社[Moura]

コミックス/無償+コミックス化

ガンガンONLINE

クラブサンデー

ファミ通コミッククリア

追記


b:id:asakura-t コメントできないようなのでここで。配信ではないけどオンデマンド出版で旧作を展開している「コミックパークhttp://www.comicpark.net/ がある。また、小学館は「ソク読みhttp://sokuyomi.shogakukan.co.jp/ で課金してる。 2010/01/30

http://b.hatena.ne.jp/asakura-t/20100130#bookmark-18946182


ご指摘ありがとうございました。また、電子ブックに興味があるなら『デジタルコンテンツをめぐる現状報告』くらいは読んでおこう。、こちらで指摘のあった書籍も購入しました。


作品販売

電子書店パピレス

eBookJapan



今回盛り上がっているのは、まずこうした分散した市場があり、一般読者が電子書籍を買いにくい状況があり、そこをiTuneが突破したような形で書籍のマーケットが生まれることへの期待、というのが文脈だと思います。



業界は「巨大なマーケットの誕生を携帯端末普及」に期待し、作家個人は「携帯端末のAMAZONAppleは個人の配信・参入障壁が低いので好機」を期待しているとの理解をしています。(表現技術の広がりは後日)



ただ、「読者が電子書籍を望むか」「プロではない作家・同人との境目」「海外主体で日本語対応の遅れ」など、いろいろと道は長そうです。とはいえ、日本は携帯電話の課金には慣れているので、携帯端末での課金セットは普及しそうな気がします。携帯GPSや着メロなどはサービスが存在し、利用しやすかったから使われている面がありますので。



長いので、書き分けます。書き分けると完結しないことが多いですが……



次は、書き手として、同人の立場として書きます。Kindleで売り上げ70%といっても、同人誌、同人の委託、ダウンロードコンテンツ販売の仕組みで既に実現している面がありますので、そのあたりを含めて考えます。あと、既存のアフィリエイトをやっているサイトは、AMAZONが乗り出さないと「電子書籍のみ」配信時、メリットが得られないと思います。



誰がしゃべっているのか、自分がどの立場なのかが明確でないと、いろいろと混ざってしまう話題です。


ヒントになりそうなコンテンツ

非常にタイムリーですが、竹熊さんがそれでも出版社が「生き残る」としたら: たけくまメモというエントリを上げました。自分は同人誌の出版を通じた経験と出版で多くの方にかかわった点で「出版社に生き残って欲しい」と考える立場ですが、だいたい言いたいことは記されています。



出版社から出すことと、自費出版の相違は、デジタル時代の「自費出版」の意味(EBook2.0 Forum)が専門的見地で分かりやすいです。



あとは個人レベルの出版的なものと、音楽業界との対比・類似ということで。



「町のパン屋さん」のような出版社: たけくまメモ

音楽業界がいかに危ないか俺が優しく教えるスレ


定常的な考察

浅倉卓司@blog風味?


メイドや執事の労働環境と、階級の違いによる差異

メモ書きというか、課題出しのようなものです。



「35過ぎて独身でいること」の限界とはなにか



こちらをはてぶ経由で読んで、結婚に対する国や時代、立場の違いが興味深くて、感想書きます。


家庭持ちが好まれなかった家事使用人職(private domestic servantのこと)

久我は家事使用人の研究(19世紀イギリス・ヴィクトリア朝を中心)をしているので現代的な視点/課題設定で過去を見るとどうなるのか、その違いと共通項を比較するのが好きです。今回話題になっている、「独身者の方が責任感がない、家庭持ちの方が家族がいるので仕事への責任感がある」との見解、これとまったく逆の価値観が、ヴィクトリア朝以降の家事使用人(執事やメイドなど雇用主の家庭で家事を行う)に当てはまりました。



(2009/11/09追記:「使用人」と「家事使用人」は意味合いが異なります。ご指摘を受け、文末に補足を追記しました)



家事使用人の仕事は原則として主人の屋敷に住み込みます。家事使用人の法定労働時間は決まっておらず、主人たちは自分たちの都合の良いように使用人を呼び出すので、住み込みの方が都合が良いわけです。



職場となる雇用主の屋敷で家事使用人が家庭生活を営むのはスペース的にほぼ不可能です。結婚して、自分の家庭を屋敷の外に持つことはできました。執事レベルの収入ならば、それは可能です。しかし、主人たちは結婚した家事使用人を雇用するのを、長らく好みませんでした。なぜならば、家庭を持つと、「家族を思って、サービスレベルが落ちる」からです。



家族がいるから責任ある仕事が出来る、との見解と真っ向から対立するのは、住み込みの仕事で職場と家庭が切り離されていないことが主要因のひとつです。雇用主は家事使用人に常に「職場」にいて欲しいので、彼らの家庭は無い方が良いのです。また、屋敷外に使用人が家庭を持ったとしても、家族のために屋敷の食料を持ち出すこと(家事使用人は自由にアクセス可能)や、家族が病気になって仕事が疎かになること(休んで欲しくない)も懸念していたのです。


女性の結婚=家事使用人としてのキャリアの終焉

女性の結婚=退職も奨励する文化でした。家事使用人は独身であっても恋人を作るのを禁じられましたし、恋人を屋敷に連れ込むのは不道徳(特に中流階級の文化としての道徳的規律の厳しさも大きい)でもあり、メイドの結婚=離職となりました。



結婚が不利になるのは、ほとんどの家では結婚したメイドを住み込みで雇おうとしなかったからです。これが冒頭の話に戻るところです。労働者階級の元メイドは育児を他人に委ねる資金をほとんど持たず、自ら育てます。そうすると、住み込みに求められる「いつでも主人に呼ばれる」仕事ができません。



子供が手を離れると、日勤の仕事は可能でした。しかし、住み込み前提の世界であり続ける限り、不定期雇用で、住み込みの使用人が嫌がる肉体的に厳しい仕事を任されるような立場になり、稼げる給与の額も下がりました。子供ができることで使用人として働ける場所が無くなり、キャリアを放棄する結果にも繋がっていたのです。



とはいえ、家父長的社会でもありながらも、女性が自立したキャリアを作ることは可能でした。上級使用人と呼ばれる部下を預かる管理職(執事や、メイドの責任者ハウスキーパー)ならば、主人の信頼を得られる立場で、結婚後も働き続けられる可能性はありました。



ただ、その道は険しく、なかなか選びえるものではありませんでした。また、当時の多くのメイドは結婚引退を願っている(社会環境の上での意識付けも強かったはず)ので、キャリア形成を戦略的に行ったのは、ごく少数だったと思います。



結局、雇用主の意向ですべてが決まるので、上記の事例に該当しない例外もありますが、「家庭を持つ=キャリアの放棄・好まれない・評価されない」職種とその時代があったのは、興味深いものです。



考察には至りませんが、後日、機会があれば深めます。


刺激的その2:生産と再生産

上記エントリに続き、それを受けて書かれた勝間和代と上野千鶴子との同じくホットエントリ入りしたエントリも、比較するところや示唆を受けるところが多く、刺激的です。



フェミニズムは専門としていませんが、女性の権利運動のところで嚆矢となる女性たちは中流階級でメイドに労働を任せた人たちで、労働者階級の人たちはあまり研究対象になっていない気がします。でも、こちらのマルクスの話では労働者の中での再生産なので、中流階級が除外されているんでしょうか? 中流階級では女性は再生産たる「家庭の天使の役割」を期待されましたが、中流階級ではメイドを雇用し、家事を代替させました。



(イギリスのフェミニスト研究者や各書物の立ち位置、対象階級・職業が詳しく分かる参考文献がありましたら、ご存知の方、ご教示下さい)



1870年代には有閑化した女性の消費がより贅沢になり、不景気もあいまって、中流階級夫妻で少子化を選択し、育児にかかる負担を減らし、生活レベルを維持する選択も見られるようになったといわれています。男性もお金が出来るまで結婚を控える行動を取り、晩婚化を選択したのも今の時代にいくらか重なりがあるところです。



現代と当時の相違は、100年以上前の中流階級の女性は働く機会を持てず、また専門的な訓練にも恵まれなかった社会に生きていたことで、生きるためには結婚を選ぶ必要があった点です。しかし、「当時の女性全体に職業の機会が無かった」というのは誤った認識で、女性の人口で多数(推定70〜80%?)を占めた労働者階級の女性たちで、働かなければ生きられない人たちは、使用人を筆頭にして職に就きました。



専門ではないので重なりを指摘するに留まりますが、リンク先の話に戻れば、「家事の値段」は付きまとう問題です。



家事は生産ではないにせよ、メイドは対価を受け取ることで、労働の価値を評価されました。しかし、その賃金設定が最適であるかどうかは別の話で、顕示的消費・ステータスとしての消費された面も大きく、労働そのものがどこまで評価されたか、考える余地は大きいです。



18世紀の生活インフラが極めて不便だった時代、独身男性が家業と家事を営むのは難しく、妻に頼り、妻が亡くなるとメイドに頼っていたり、再婚を願ったりしている日記なども残っていて、再生産の話は生活インフラに大きく左右されます。(家事使用人産業が衰退したのも、社会全体に安価で代替可能なインフラや生活環境が整ったことが影響)



紹介されている本は読んでみたいです。



基本的に結論を書くつもりでもなく、まだ書けるレベルでもないので、主に共通点や気になったところを書いたメモです。(投げっぱなしですみません)



自分自身は働かないと食べていけない人間なので、主に歴史を研究していても労働者階級の視点で物を見ていますし、執事やメイドは「過去に存在した同僚」とも思っています。過去を知ることで今を見る視点も増えますし、今に興味を持つことで過去を知る視点も得られて、自分の知りたいことを深められる示唆を得られることが、勉強になります。



自分自身の戒めとしても、「その価値観が何に根ざし、それを普及させたのは誰で(どのような立場の人)、どのようなメリットがあるのか」を、常に考える視点は持ちたいものです。ヴィクトリア朝はこの辺、「社会通念」や「同調圧力」が強い時代なので、物を見る目を意識させられる昨今です。


2009/11/09追記:「家事使用人」と「使用人」の相違

はてぶを拝見し、補足情報として追記します。



自分の「使用人」との言葉の使い方が正しくなかったと気づきました。自分が研究しているのは、「使用人」(servant)に含まれる、イギリスの「家事使用人」(private domestic servant)です。メイドや執事とタイトルに含めたのも、そこに限定した話とするためです。文中、「家事使用人」として使っているつもりで「使用人」と書いたものは、「家事使用人」に修正しました。



使用人との言葉で連想されるかもしれない、「徒弟奉公」(apprentice:商店や職人の元でその技術を学ぶために住み込みで働き、一人前になったら独立する)とは異なりますし、封建的な意味での「奉公」とも異なっています。



雇用主が生計を立てる職業には原則として労働力を提供しない立場で、雇用主の家庭での家事に専任しています。(農場主が雇用主の場合は農場と家が隣接し、その境界が曖昧なので両方に従事させられる可能性が高い)



家事使用人は、少なくとも19世紀イギリスでは職業として成立しています。



英国で19世紀に始まった国勢調査上では「家事使用人」は職業分類として存在し、多くの場合は雇用主の職場から切り離された家庭(domestic)で働き、家事全般を任された職業を指します。最盛期には100万人以上の女性がその職に従事し、当時の女性の労働者人口で最大規模にまで育った産業です。



家事使用人職は自発的な離職と転職を通じて職場を変えられますし、様々なスキルを見につけて昇給したり、上位の職種へキャリアアップもできました。そして、労働することによって家族を養うだけの賃金を得らえる職種も存在しました。



職業として分業も進んでおり、分類として「執事」「ハウスキーパー」「ハウスメイド」「キッチンメイド」などそれぞれ専門性の高いスキルを備えた職種が存在しました。経済力がなく、ひとりの家事使用人しか雇用できない家庭では「メイドオブオールワーク」と呼ばれる、雑用をすべて一人でこなすメイドを雇用しました。



家事使用人は様々な規制や不利な労働条件で働きましたが、自主的に職場を去る通告を主人に与えられました。現代からは想像しにくいのですが、彼らは比較的自由に「転職」しました。「封建的関係での年季奉公」ではないのです。勤務先の家庭の生活レベル(=年収)が向上しない限り、昇給する可能性がないからです。経験を積めば、より高い給与を望めました。転職回数は非常に多く、17年間で12回転職したメイドもいました。その分だけ、雇用の流動性は高く、求人広告や人材バンクの前身ともいえる職業斡旋所も存在しました。



正確に伝えきれたか分かりませんが、言及しているのはイギリスにおける家事使用人、です。複数の意味を持ちえる言葉は、使い方や伝え方に気をつけないといけませんでした。ご指摘、ありがとうございました。


シンクロニシティ:好きと出会う旅・繋がった今週

雑感なので主に自分のために書いています。


月曜日:蝶野さん

先週、元会社の同僚から「蝶野さんの25周年記念興行」の誘いを受けました。久我は新日本プロレス・蝶野さんの大ファンで、黒くなってからの「蝶野・天山・ヒロ斉藤」という狼群団nWoの洗礼を受けた世代でした。で、今週の月曜日、両国国技館の大会を観戦してきました。実は生で蝶野さんの試合を見るのは初めてでした。



もう、幸せに包まれました。



自分が生きている間に見たいと思っていた、トップ選手をほとんど目の当たりにして、感慨深い一日となりました。途中、「このメンバー、三沢さんが来ておかしくない」と感じてから、すぐに亡くなっていたことを思い出しました。三沢さんの試合、生で見たかったです。



会場の熱気に包まれたのも、得がたい体験です。



ゲストで朝青龍がコールされたのですが、不在でした。



そうか、実はここでモンゴルが既に繋がっていました。


火曜日:『午前零時のサンドリヨン』を読む

感想はこちらに書きましたが、自分の人生ですれ違った方の小説を読むのは、得がたい機会です。今年、2度目ですね。(1度目はきっしーさん)



ちょうど自分の出版が決まっていた時に、受賞&刊行のお話をうかがいましたことも、不思議な感じもしました。後に続けるよう、自分も頑張ります。


土曜日:森薫先生サイン会

今まで一度も参加できたことがなかったのですが、今回は参加できるような気がしていました。整理券配布の申し込みの電話をしたところ、30分ぐらいで繋がりました。そして昨日、参加してきました。



自分が商業出版できるだけに同人活動を続けられた大きな要因のひとつは、森薫先生の『エマ』があったからです。森薫先生の旅行記の影響でイギリスを訪問しましたし、『エマ』を通じて多くの読者の方に会えたと思いますし、『エマ ヴィクトリアンガイド』、何よりも森先生の描く世界は、自分自身の大きな目標になりました。



好きを貫く姿勢と、妥協せずに物を作るその姿に、憧れを覚えています。



現地では緊張で伝えたいことの1%も言えていませんが、いつかどこかで森先生と、メイドや資料、そして物つくりのお話しをできるよう、自分自身を高めて行きたいと思います。何年かかるか分かりませんが、『マナーハウス』の副読本ではすれ違えましたし、可能性はゼロではないと思います。これが、目標の一つです。



サイン本は家宝にします。



今週は、自分が「大好きな人」と同じ場を、距離はだいぶあるものの、わずかなりとも過ごせたことが、自分の人生レベルで記憶に残る週となりましたし、良い作品にも出会えました。偶然が左右していますが、こういう何かの重なりは、時に必然に思えます。



あと、資料やら同人誌を過去、森先生に送ったことがありますが、それを覚えていてくださいました。本当に何か伝えたいことがある方は、編集部当てにお手紙を送られてはいかがでしょうか。


遊牧民族&繋がり

上記で話が終わるはずでしたが、不思議な繋がりがありました。サイン会の後、知人の方がモンゴルへ旅行したお土産話をうかがいに行きました。何気なく思い出したことですが、久我の従兄はモンゴルに留学していましたし、同じ日にサイン会があった『乙嫁語り』はモンゴルではありませんが、遊牧民族の話です。



お土産話をされる中、現地の写真をいっぱい見せていただきましたが、馬の姿や、騎乗する様子、青い空、羊の解体、薪をくべた世界と、様々な写真、そして教わった価値観は勉強になることばかりでした。冒頭の話に繋がりますが、朝青龍が買い上げたというサーカス会場の話や、現地における彼の功績の話を聞いて、驚きもしました。



さらに話が広がると、このモンゴル旅行、最近はてぶのエントリ「月3万円の仕事を10個持つ生き方」で話題になった、伊藤洋志さんの主催でした。そして、久我はこの伊藤さんが講義をされている「自由大学」を、以前このブログで紹介した『自分をいかして生きる』の筆者、西村佳哲さんが講師をされていることから、知っていました。



遊牧民族繋がりだけではなく、別々の関心を持つところが、同じところに繋がっていて、偶然なのか、世界の狭さなのか、こういう繋がりに気づいて、驚きと喜びがありました。



そして今日お会いした別の方から19世紀のオスマン・トルコあたりの資料をお借りしたので、今後の何かに繋げていけると良いなぁと思います。久我は『アラビアのロレンス』が大好きなので、あぁいう世界を描きたくて、一時期、資料を調べようと思ったことがあります。ボタンを掛け違えていたら、メイドの研究ではなく、そっちに進んでいました。



同人活動がもうすぐ10年を迎える中、原点のひとつといえる視点にぐるりと回って、そこに興味を持っている方とお会いできたのも、不思議なものです。まだまだ人との繋がりの縁は多くあるのですが、これらが今週起こった出来事でした。



自分の原稿が今、佳境の中、「好きな方・尊敬する方」と同じ場にいられたことで莫大なエネルギーを貰いましたし、繋がりの中で生きている、これが続く時は良い物を作れそうです。


好きが伝わる、最高のもてなし〜『乙嫁語り』1巻発売

乙嫁語り 1巻 (BEAM COMIX)

乙嫁語り 1巻 (BEAM COMIX)





森薫先生の新刊です。森薫先生の作品の素晴らしいところは、描かれる世界への愛です。しっかりと心を込めて作っている、それを受け取り、その世界に没入する人が居心地の良い場所を、作ってくれています。自分の庭で育てた野菜や果物で、もてなしてくれる料理店のようなのです。



そしてテーマも、自分が元々好きだった物を選んでいるのが、強いです。好きなテーマであればあるほど、「誰かにやらされる」という言い訳ができません。すべて、自分で背負っています。



面白いところが、好きは繋がっていくところです。これは私見ですが、『エマ』で描いたイギリスでも羊の放牧や、ウサギ狩り(『エマ』の時代に弓矢は使いませんが)が行われており、もしかするとイギリス取材で見てきたものなのではないかと思ったりもするのです。馬の種類に詳しくありませんが、ヴィクトリア朝は馬の時代でもありました。



衣装や生活習慣に興味を持つと、それがどこに由来するのかを考え、また他の国ではどのように扱われていたのかも調べることもあります。いろんな要素が繋がっていくと、面白いです。アジア系遊牧民族には詳しくないですが、箱庭的な世界を楽しみたいと思います。