ヴィクトリア朝と屋敷とメイドさん

家事使用人研究者の久我真樹のブログです。主に英国ヴィクトリア朝の屋敷と、そこで働くメイドや執事などを紹介します。同人・出版活動の報告を含みます。

『英國戀物語エマ』第七話



今回は「クリスタルパレス」ですね。有名どころですし、和書も多く出ているので、特に話すことも無いですから、他の視点で見てみましょう。



下の写真は国会議事堂です。





描写の解説面で説明の都合上、描き方に踏み込んでおります。まだ見ていない方はネタばれになるかもしれませんので、ここから先は読まないようにお願いいたします。



屋敷と階段

お屋敷と言うとイメージするのが、壮麗な階段と広い玄関ホールです。両翼に広がる、或いはまっすぐ伸びる一本の階段からお嬢様が降りてくる。



実際、多くの屋敷で階段は、入ってきた客人を出迎え、そして驚かせる為の舞台にもなりました。今回のような人が多い社交パーティが開かれる場所としても適しており、オーケストラを呼び寄せて演奏させた屋敷もあります。



エレノアの屋敷は階段が途中で分かれていますので、それほどスケール感はありません。エレノアの立っていた踊り場の上の壁、そこは階段を昇る人の目に入る一番いい場所ですが、エレノアの肖像画が配されていました。エレノアの両親が如何に、娘をプッシュしているかを示す事例ではないでしょうか?



とはいえ、当のエレノアはやや内気な気性のせいか、社交界に出たての為か、そしてウィリアムしか眼中にないせいか、主役でありながらも飾り物のように、周囲には誰もいない、という状況になっていました。



イギリス人は先祖や家族の肖像画を数多く飾っていたそうです。アニメの中でも、人が写るそのたびに見える壁には、絵画が飾られています。



屋敷の建築様式

先週書きましたが、ウィリアムの家と異なり、エレノアの屋敷の玄関は、ローマやギリシャの神殿を模した形で、車寄せはありません。これは新古典主義的、と言えるでしょう。内装や絨毯、天井を見ても、色彩は抑えられています。



ウィリアム「何が言いたい?」

ハキム「何も」



この会話をしているウィリアムとハキム。下からふたりの顔を写す構図によって、その背景である天井が映し出されています。少し青みがかかったセレスティアンブルーとベビーピンクの天井、それに金色の縁取りは、18世紀のロバート・アダムの時代のものだと思われます。



意外な公園事情

公園で徹夜するウィリアムとエマ(語弊あり)を見て思い出しましたが、あまり語られないヴィクトリア朝の特徴のようなものがあります。最初にそれを知ったのは、ジョージ・オーウェルの本かもしれませんが、今、手元にある資料で言うと、『どん底の人びと』がそれを生々しく伝えています。



ヴィクトリア朝の1年後、エドワード朝の始まりの年になる1902年、作家ジャック・ロンドンはロンドンの下層生活に飛び込みました。彼の残したルポルタージュどん底の人びと』(ASIN:400323152X)は当時の事情を描きましたが、その中で、ジャックは不思議な光景に出会います。



彼が案内役の人と公園に入ったときのことです。

 クライスト教会の影がスピタルフィールズ公園に落ちるようになっている。この影の中に私はその日の午後三時に二度と再び目にしたくないような光景を見てしまった。

どん底の人びと』(ジャック・ロンドン、行方昭夫訳、岩波文庫)P.76より引用
ジャックが見た光景とは、公園で眠る、最下層の人々でした。当時のロンドンでは夜中に街中でも公園でも、「屋根の無い場所」で眠るのは禁じられていました。警察は治安維持や防犯目的などから、眠っている人々を眠りから叩き起こし、移動させました。



こうした人々に一時的な寝床を提供する施設は存在し、同じくジャックはそこにも飛び込んでいきますが、数が多く、全員が収容されるのは無理な話でした。そこで、夜は歩きっぱなしになったり、移動させられたりを繰り返した人びとが、昼間の公園に姿を見せ、そこでゆっくりと眠る、というのです。



また、安い値段で雑魚寝するような宿も数多くありました。その中の一つが、『Tipping The Velvet』の中で、主人公Kittyとメイドが泊まった宿になるのでしょう。



早朝の倫敦〜もうひとつの倫敦

早朝の倫敦、意外な雰囲気でした。



『エマ』において描かれる倫敦は生活の匂い、人が住んでいる温度がします。ヴィクトリア朝について抱くイメージは、ゴシックだったり、ヴァンパイアだったり、退廃、オスカー・ワイルド的私生活、切り裂きジャック、重厚な雰囲気、堅苦しい価値観、偽善など、様々にありますが、その対極にある、と言えるかもしれません。



前述した雰囲気を最も伝えている映画は、『フロム・ヘル』です。



一生のうち、二度と見ようと思わないその映画は、ヴィクトリア朝の「負」のイメージを完璧に描ききり、何年も経過するのに、そこで描かれた光景は鮮明に記憶に残っています。再現された倫敦は薄暗く、不透明で、まるで迷宮のようでした。さらに倫敦の描き方も徹底して、真っ赤に染まった空、という極端な表現さえも、マッチしていました。



しかし、使用人という目で見ると、倫敦やヴィクトリア朝は別の顔を見せます。彼らが語りかける風景や生活は、自由が制限されていたり、安い賃金、厳しい条件での労働に縛られていますが、それだけではなく、彼らは彼らなりに人生を楽しみました。仲間との仕事、信頼してくれる暖かい主人、家族のように接してくれた子どもたち。人々は今と変わらず、暮らしていました。彼らの語る風景には、重厚で退廃的な雰囲気はありません。



貧困や社会主義、政情不安、公害など当時を語る言葉は様々にあり、また事実でもあります。上述のジャック・ロンドンも、あとがきによると、段々と目の前にある光景に耐えられなくなり、文章の後半部分は実際に見たものより、聞いたものが増えていったそうです。それほど厳しい現実世界が存在したのと並行して、大きな声で語られてこなかった、日本で大きく取り上げられなかった、個人の生活風景があります。



久我は、使用人を通じて伝わってくる、ヴィクトリア朝の雰囲気が好きです。ディケンズやハーディの描く世界、登場人物が好きです。それは家庭や主人に守られた狭い世界、現実から切り離された出来事かもしれません。



しかし、生きている人の温度、素朴な手作りの匂いのする生活、近代的な繁栄と贅沢な暮らし、現代と変わらぬ働くと言うこと、生きると言うことを考えさせてくれる、十分に興味深い世界だと、感じています。そしてその世界は、確かに存在したのです。



大きな声で聞こえるものだけが、すべてではありません。



百年以上前の人が歩いた場所、見ていた風景が今も残っている、そうした血の通った想像と適当な温度を伴って、『エマ』に19世紀末の倫敦が表現されている、と勝手に思っています。



久我がヴィクトリア朝の暮らしに興味を持ち、こうしていろいろと書く理由は、「こういう世界」に魅力を感じ、存在していたことを、伝えたいからです。



ただ、歴史と異なり、再現することだけでは物語として・創作としての完成度を高めることにはなりません。表現手段そのものにこだわりすぎると、本筋を見失いかねません。その辺り、小説版はバランスを欠き、アニメ版はバランスを取ろうとしている、原作はバランスが取れている、というところでしょうか。



見る側に、かなりの情報があった方が楽しめる点では、『ファイブスターストーリーズ』的な楽しみ方に近いのかもしれませんね。



関連するコラムなど

DVD:『Tippig The Velvet』

DVD:『フロム・ヘル』

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