今回の隠し玉、というわけでもないですが、通勤時間はメイド(Lilian Westall)の手記を読んでいます。適当な長さなので気が向いたら、帝國メイド倶楽部向けに翻訳します。気が向いて、体力があれば、紙になります。コミティアしだいです。
執事の読解を進めていますが、上級使用人の話はマネジメントに結びつき過ぎています。こういうのも買う必要があるかと考え中です。
- 作者: ピーター・F・ドラッカー,上田惇生
- 出版社/メーカー: ダイヤモンド社
- 発売日: 2001/12/14
- メディア: 単行本
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20世紀初頭の執事に学ぶ
『日の名残』、或いは「上級使用人・執事」補遺
前にこういうエントリを書きましたが、そういう視点は結局、「如何に適切に主人の要求を、手持ちの資源(資金・資材・人材)でかなえるか」になってくるんですね。その点において、執事とは「バトラー」だけの能力(ワインの管理者:給仕:周辺の世話という対個人スキル)では不足で、「スチュワード」的なより高い観点(組織を動かす:人を育てる:資金の管理)が必要だと感じる次第です。
で、こういう観点は文学や歴史の研究者からは出にくいものだと思うのです。前にも書きましたが、久我は大学で専攻したわけでもなく、師匠もいませんし(出会いたいですが)、院にいっているわけでもなく、社会人として普通に働きながら、この活動をしています。
自力で、周囲に学びながら、研究しています。それはマイナスでもありますが、専門領域が無いが故に、自由な視点を持てます。(この辺りの詳細はヴィクトリア朝メイドを語ること・『エマ』に思うことに記しています)
自分自身が「組織の中で働いている」のは強みです。過去の使用人たちと似たような境遇にあったり、似たような人を毎日見ていればこそ、感覚が培われているのかなぁとも思うのです。
最近になってこうしたマネジメントへの関心が広がったせいか、今まで気づかなかったマネジメントにおけるいい言葉を『ヴィクトリアン・サーヴァント』に見つけたので、ご紹介しておきましょう。
「どんな世帯でも統制することが[執事の]任務である。とりわけ大世帯では、この思慮分別ある権力の行使が大いに必要とされるであろう。というのは、だらしのない管理のもとでは、下級使用人たちは決して居心地もよくないし、まして幸福でもないから」(『ヴィクトリアン・サーヴァント』英宝社・パメラ・ホーン著:子安雅博/訳P.126より引用)
マネジメントの立場にある人間が、与えられた権限を使わないのは、責務の放棄と同じです。それを、百年前?の手引書が述べているのです。現代とまったく変わりません。使用人を学ぶことは、社会人として働くことに繋がっているのだと思います。
だから、長い間、続けていて飽きないのでしょうね。
もちろん、それ以外の魅力も大きいのですが。