ヴィクトリア朝と屋敷とメイドさん

家事使用人研究者の久我真樹のブログです。主に英国ヴィクトリア朝の屋敷と、そこで働くメイドや執事などを紹介します。

【感想】BBCのジョン・マルコヴィッチ版『ABC殺人事件』(ネタバレあり) かつてないほど「弱いポワロ」

はじめに(ネタバレなし)

ジョン・マルコヴィッチ主演のポワロ作品『ABC殺人事件』が、2018年にBBCで放送されました。そのDVDが2019年に発売したので購入し、感想を書きます。「はじめに」のみネタバレなしです。



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ABC殺人事件




最近、アガサ・クリスティーの作品の映像化が活性化しているように思います。様々なポワロ 作品がある中で、最も原作に近く、原作を映像化しきったデビッド・スーシェ主演『名探偵ポワロ』(1989-2013年)が終了したことも、新しい作品を生み出すことにつながっているかもしれません。デビッド・スーシェのポワロ解釈は深く、ポワロに寄り添うものであり、個人的には彼以外のポワロを見ると違和感を覚えるほどです。



Poirot and Me (English Edition)

Poirot and Me (English Edition)





スーシェが人生をかけて演じた状況は彼の自伝に詳細に書かれていますし、また『ポワロと私』というタイトルで自伝を書ける資格は、著者のクリスティーを除けば、スーシェだけに許されたものでしょう。



スーシェ版ポワロは時間と限りないリソースを使った完璧な作品であるがゆえに、「スーシェ版以降」に出る作品は、様々な点で原作のストーリーを変更したり、ポワロ解釈を改変したりする必要に迫られていると言えます。



その代表的なものが、ケネス・ブラナー主演による『オリエント急行殺人事件』で、予告編や冒頭のポワロ解釈は誇大化した・戯画化したように思えるもので、個人的には好きではありませんでした。物理的なアクションにも強く、精神的にも自身を神と思えるぐらいに、「最強のポワロ」です。







しかし、この作品は原作で「少しおかしくないか?」と思える箇所をケアする設定を盛り込んでおり、この点では原作以上のシナリオを表現することに成功した面もあったと思います。そこには、スーシェ版という完成品がありながらも、あえて作る意味がきちんと存在しています。その点については、以下で考察しました。



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そして、その先に続くジョン・マルコヴィッチ主演のポワロ作品『ABC殺人事件』は、どのようなシナリオになるのか? というのを確かめた感想が以下になります。ブラナー版との対比で言えば、「ここまで弱い・活躍できないポワロは見たことがない」という作品になっています。



なお、日本でも三谷幸喜氏による『オリエント急行殺人事件』や、『アクロイド殺し』の映像化がなされています。日本を舞台にしている点で作る意味はあると言えつつも、こちらもそれぞれに原作にはない作品解釈を盛り込むことで、スーシェ版と異なるアプローチで原作の魅力を際立たせるオリジナリティが発揮されています。





以下、ネタバレです。
















マルコヴィッチ版『ABC殺人事件』は、「ポワロ」が「探偵役となる機会を与えられなかった場合」の物語

「最弱のポワロ」

端的に言えば、本作品の「ポワロ」はかつてのポワロ 作品で「最弱」です。何故ならば、彼が事件に関わり、捜査に協力する機会が与えられないからです。



元々、『ABC殺人事件』は劇場型犯罪であり、また殺人の中に本命の殺人を隠すトリックが著名なものです。ポワロはその知名度を利用されて(アリバイ作りにも)、犯人から殺害の予告状を受けます。この予告状から、Aの地名でA.A.、Bの地名でB.B.のイニシャルを持つ人たちが殺害され、現場にはABC鉄道時刻表が置かれている、そして犯人は犯行の度にポワロへ次の殺人の予告状を送る、という仕立てになっています。



ところが、本作品のポワロは、冒頭で述べたように警察の支援を得られません。予告状の話を警察へしにいったポワロは、親友ジャップ警部の引退を知らされます。後任の若い警部クロムはポワロを信用していません。さらに、舞台は『名探偵ポワロ』でポワロが大活躍した1930年代と同じ1933年にも関わらず、ポワロの探偵稼業は衰退しており、もはや屋敷を舞台にした殺人事件の捜査に需要はない、というようなことも語られています。さらに、老いを隠すために白髪となっている髭を染めていったものの、クロムとの対話中に溶け出した染料の指摘を受ける、という恥もかきます。



警察内のサポート役だった引退したジャップも、ポワロと会った場面で亡くなります。相棒のヘイスティングスも登場しません。ここで描かれているのは「ポワロの足元の弱さ」です。



1. 老いている。

2. 探偵としての名声は過去のもので、需要がない。過去の人。

3. 信頼できる警察の味方がいない。ジャップ警部は引退・死に、後任のクロム警部からは拒絶される。

4. ヘイスティングスもいない。



その上、クロム警部は外国人で移民となるポワロの前歴を怪しいものと考え、第一次世界大戦以前にはベルギーで警官をしていたというけれども記録がない(原作ではベルギー時代を扱った『チョコレートの箱』があり、この点は原作から外れた解釈)として、ポワロを全否定です。また、「外国人」であることへの反感も描かれています。



というところで、ポワロ作品を知っている視聴者は、かつてないほどに「弱いポワロ」を見ることになります。


「殺人事件の不気味さ」の演出の強化

「探偵作品としては全然面白くないのでは?」と疑問に思いながら見ていくことになりますが、どこに重点が置かれているかと言えば、「ABC殺人事件の犯人」とされることになる、アレキサンダーボナパルト・カスト(ABC)と、それぞれの事件の被害者に焦点を当てています。「謎の殺人事件をポワロが解決していく」スタイルではなく、「巻き込まれていく人々の人間関係や悲劇性」、そしてこの「拡大していく謎の殺人事件の不気味さ」がメインに思えるのです。音楽も全体として不安を煽るような構成になっており、画面の色調も暗く、コントロールされています。


「原作にない、ポワロと事件の繋がり」

ブラナー版の『オリエント急行殺人事件』が、原作にはなかったユニークで、原作にあってもおかしくない、むしろそっちの方が自然だったのでは、と思えるポワロと事件との繋がりを描いたことに続くように、本作品でも「事件の被害者」とポワロは繋がっているように描かれました。当初の被害者のそれぞれが、ポワロと何かしらの形で接点を持ち、犯人はそのことを知った上で、被害者を選び、殺しているのです。



中でも際立っていたのが、サー・カーマイケル・クラーク(Cの被害者)との連なりです。かつてポワロは最盛期となる時代(1928年)に、この屋敷卿夫人ハーマイオニーの誕生日のサプライズゲストとして訪問していたのです。卿夫人はポワロの崇拝者であり、そこでポワロはエンタテインメントとして、「殺人事件の犯人探し」の場を提供します。そして、ゲストにとっては「ゲーム」でも、ポワロ自身は翌日からいつも通りに「本物の殺人者を捕まえる」ことに戻ると語りつつ。列席者、そして主催のカーマイケル卿は、「Brithday murder」と歓声をあげるなど、やや悪趣味な上流階級らしさが描写されます。ポワロはここで「殺人をエンタテインメント」化し、また卿夫妻と列席者と一緒に写真を撮りました。



そして、そのポワロを招いたサー・カーマイケル・クラークが殺され、「Birthday murder」を捧げられたハーマイオニー卿夫人は、本当の死に直面するという悲劇に見舞われるのです。



真犯人のカーマイケルの弟フランクリンは、この時のポワロとの出会いに影響を受けました。



原作でフランクリンは遺産相続のために兄を殺し、その殺人をバレないようにするために関係ない人の殺人事件を作り上げ、「殺人の中に殺人を隠す」ことを試みます。ポワロを挑発し、さらにはABCの名を持つカストを犯人に仕立て上げました。その本筋は変わっていないのですが、本作でフランクリンはポワロとパーティーで関わり、彼がエンタテインメント化した殺人事件を進めていくことに情熱を持ちました。また、卿の秘書グレイも、フランクリンが真犯人と知り、彼と付き合っていくようになることは原作との大きな違いです。


ポワロの動きが遅い=事件の拡大

そして、本作が非常に興味深いのは、「もしもポワロが警察の協力を最初から得られず、犯人探しに遅れをとっていたら?」という状況で事件が推移するところです。原作では4番目の殺人となる「D」で殺人が停止します。なぜならば、そこで「犯人」とされたABCことカストが逮捕されるからです。しかし、本作でカストは逮捕されないまま5番目の殺人「E」に至ってしまいます。



これは好みは別として、新しい解釈です。


「ポワロの過去」

最後に、本作では「ポワロのベルギー時代」が明かされます。元々、警官だった経歴を持ち、ジャップ警部とも知り合いであったことが前提で英国で活躍するポワロの設定を覆したかった理由は私にはわかりませんでした。ただ、「原作とドラマの11の違い」というテキストによれば、1933年にあった「レイシズム」「反移民」の環境に直面する外国人移民の立場を、「ポワロ」を通じて描いたようです。そのテーマ自体は現代に通じるものであるために盛り込み、また若きクロム警部の協力を得難い状況を作る理由になったとは思います。



以下、引用です。


www.radiotimes.com


4. The racism – and Poirot’s past
TV drama: Racism and anti-immigrant feeling in the Britain of 1933 is a central theme of this Agatha Christie adaptation, as the public mood shifts against foreigners. The rise of the British Union of Fascists and the facts of the ABC case force Poirot to look back at his own past, when he fled Belgium in 1914: it is revealed that he was a Catholic priest who encouraged his congregants to shelter in his church and then saw the building (and its inhabitants) torched to the ground.

Novel: This dramatic storyline about Poirot’s past does NOT come from the novel, although anti-foreigner feelings are present in the original story. Poirot detects a “a slight anti-foreign bias” in the first ABC letter, which reads: “You fancy yourself, don’t you, at solving mysteries that are too difficult for our poor thick-headed British police?” And when Franklin is identified as the killer, he yells: “You unutterable little jackanapes of a foreigner.” Which is a brilliant line.


まとめ

全体として、本作品はアガサ・クリスティーの「ポワロ作品シリーズ」にある探偵小説としてのカタルシスという文脈からは、外れているものです。本作でポワロは尊敬されず、反発を受け、探偵として能力を発揮する機会もなかなか与えられず、それでも自ら動き、苦闘しています。また、本作のポワロは「過去の人」であり、全盛期が去った境遇にも置かれています。



個人的に興味深かったのは、「この状況に置かれたことで、Dで終わっていた殺人事件が終わらず、Eまで被害者が出たこと」です。そして、そうした被害の拡大を続けた真犯人のフランクリンが、原作では「相続のため」に殺人をしていたことを、「ポワロと過去に出会い、殺人事件のゲーム化」にインスパイアされたことなどは現代的な解釈に思います。



作品としては、『名探偵ポワロ』とは全く違う解釈のもので、またクリスティー原作を換骨奪胎して、「もしもポワロがこういう状況だったら?」「ジャップ警部の不在で警察の協力がなかったら?」という変化が生まれたことで起こり得たものとして、「派生シナリオのひとつ」と考えることができます。



そういう点では、あまりにも原作から始まりの境遇が違いすぎるため、ポワロに感情移入してしまい、「ジョン・マルコヴィッチがどのようにポワロを演じるか?」というある種の比較する視点に立てなかったのかもしれません。ポワロ作品なのに、「ポワロが活躍を楽しむ作品ではない」「ポワロの魅力で押す作品ではない」、というのが私なりの解釈です。


余談:サー・カーマイケル・クラークの屋敷はNewby Hall

卿の屋敷が映った時、壁の色彩や階段の模様などから、私が大好きな建築家Robert Adamの手によるものでは?と思って調べたところ、その通りでした。
www.newbyhall.com

秘書グレイが風呂に入っているシーンでも、この屋敷の風呂が使われたようで、背景にはAdamの特徴的な装飾が見えていました。一度でいいので、宿泊してみたいです。どういう色彩かと言えば、同じAdamが手がけたOsterlery Houseの画像から。

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英国の屋敷訪問記は、noteの方で更新しているので、興味ある方はそちらも。

note.mu