ヴィクトリア朝と屋敷とメイドさん

家事使用人研究者の久我真樹のブログです。主に英国ヴィクトリア朝の屋敷と、そこで働くメイドや執事などを紹介します。

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q 感想(ネタバレ:2回視聴の上で)

はじめに(ここはQのネタバレなし)

新世紀エヴァンゲリオン』は自分にとって特別で、アニメから受けた影響が最も大きな作品です。1995年の放送時、19歳だった私は毎週欠かさず、それこそ放送があった水曜日を待ち望んでいましたし、その当時は普通だったVHSに録画を欠かさずにしていました。今でも、「あ、録画をし損ねた」と飲み会の時に思い出したこと、『最後のシ者』を深夜まで何度も繰り返し見ていたことを覚えています。



あの頃、関連するゲームでも遊びました。たとえばセガサターンの派生ゲーム『新世紀エヴァンゲリオン』(委員長が主題歌を歌う)や『新世紀エヴァンゲリオン 2nd Impression』、それに『新世紀エヴァンゲリオン 鋼鉄のガールフレンド』、そしてTRPGのシステムで出た『新世紀エヴァンゲリオンRPG NERV白書』など、エヴァのキャラクターや世界観を相当楽しみました(その楽しみ方の原点は『ゲーム的リアリズムの誕生』の指摘で気づいたのですが、『ロードス島戦記』でしょう)。



もちろん、テレビ版の終わりの2話や、旧劇場版の結末は忘れられません。ただ、あの最後の旧劇場版で私は「感想」を何も抱けませんでした。劇場を出て呆然として、空っぽでした。一緒にいた友人とも会話ができませんでした。



しばらくして、お金を払って、なぜこんな目に遭わなければならないのかと思いました。テレビ版のキャラクターたちがあっさりと殺されていく、人類補完計画の名の下に蹂躙されていき、キャラクターの無力を味わってカタルシスが無く、最後のセリフも意味が分かりませんでした。



その当時、ネットにも同人にも繋がっていなかったので、新しい情報を入手したり、共有したりする場もありません。そこで私はストップし、作品への怒りも特になく、淡々と受け流していました。旧劇があのような作品であっても、『新世紀エヴァンゲリオン』と言う作品全体から受けた印象は総じて私にとってはプラスでしたし、特別なものとして残り続けました。



衝撃的な旧劇場版から時を経て、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』シリーズが2007年から始まりました。『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』はテレビ版を踏襲しつつ、テレビ版よりも人の繋がりが強く描かれているようで、街にもネルフにも学校にも「人間」が多く描かれていました。使徒のデザインの変化も驚きました。



ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』は、その当時見たアニメでは最高峰の技術が結集されていて、純粋にアニメとしての気持ち良さが詰まっていました。エヴァが走る躍動感は何度見ても爽快で、使徒のデザインは人間の想像力を試されている感じがしましたし、単純に倒せない使徒の変異も素晴らしいものでした。映画館で結局、3回以上は見たでしょうか? 作品の中で、ネットで言われるようにシンジくんは「シンジさん」と呼ばれるような変化を遂げたのも旧劇場版との違いですし、「楽しませよう」「気持ちよくさせよう」というエンターテインメントとしての意志を感じました。



では、その次の作品となる『Q』は?



以下、ネタバレとなるQの感想です。











































ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』は、『序』『破』の延長にあると期待して、私は劇場に行きました。『破』で感じた「アニメ的気持ちよさの追求」が継続し、旧劇場版にあったような「?」な作りはもう無いであろうと。ところが、『Q』は序盤から『破』と雰囲気が違っていました。



時間は14年後になっていますし(旧劇場版からも14年が経過していますね)、何よりも当惑したのは、そこにあった雰囲気が「旧エヴァ」だったことです。とにかくコミュニケーションがぎすぎすしているというか、きちんと説明すれば伝わるのに、一言や二言が足りず、或いは踏み込むことができず、また説明することもせず、それが積もり積もって結果を悪い方へと導いていく。どちらかでも歩み寄っていけば結果が違うかもしれないのに、との構造でした。



初回は正直、この話に翻弄されて、感想を持てませんでした。さながら旧劇場版を見た後のような気持ちで、エンディングの曲も耳に入る余裕がありませんでした。次回予告に救いを見出しましたが、『破』の時にあったようなカタルシス(『破』の本編で死んだと思っていたアスカが、予告編に登場)が一切なく、「これで終わるの?」「この予告はなんなの?」と、より疑問が深まるばかりでした。



そして、帰宅してからは、ネットを回遊して、感想を探しました。この「分からなさ」や「作品で受け止めたものを、『補完する』アクション」こそ、エヴァだったなぁと思い出しながら。



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というところで、頭を冷やして、2回目を見に行きました。すると、一度目にあった「『破の』延長と考えていた自分の期待」によって生じた当惑と驚きが消え、よりフラットに作品を見ることができました。その中で気になったのは、カヲルくんの言葉です。「エヴァで起こしたことは、エヴァでやり直せる」との言葉は、「旧劇エヴァ」でやったことは「新劇ヱヴァ」で、或いは新しい物語でやり直せるとの意味にも取れました。



そこで、作品の方向性がタイトルにあると思い至りました。



ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序 EVANGELION:1.0 YOU ARE (NOT) ALONE.』は、「あなたは一人(ではない)」となっており、この場合、劇中で選択されたのは「一人ではない」でした。作品内ではシンジは「繋がりの中にいる」感じが見えました。



ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破 EVANGELION:2.0 YOU CAN (NOT) ADVANCE.』は「あなたは先に進むことができる(できない)」。この場合、選択されたのは「進化」でした。自分からなかなか意思決定を行えなかったシンジが、綾波を助けることを選択し、ミサトもそれを支持しました。そこには、カタルシスがありました。



しかし、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q EVANGELION:3.0 YOU CAN (NOT) REDO.』では、その選択の結果、サードインパクトが生じ、世界は滅びかけてから14年後からスタートします。そしてタイトルで問われていたのは、「あなたはやり直すことができる(できない)」です。そこにカヲルくんの言葉を重ねると、この物語は「やり直しのための物語」であると。



実際にはカヲルくんが「やり直せる」として挙げた二本の槍が、期待と違っていて「やり直せなかった」のかもしれませんが、旧劇と違って、ラストシーンではアスカがシンジと綾波を連れて一緒に旅立っていく(アスカは物語中、罵りながらもシンジを最後まで絶対に見捨てない)点で異なる未来が見えました。



そもそも、私は「なぜ、エヴァンゲリオン」は新劇場版として作られなければならなかったのかを、正しく理解していませんでした。この時代に作られる=過去にできなかったことの表現(やり直し:REDO)ではないかと思った時、この新劇場版を作るに際して庵野総監督が行った「所信表明」を見つけました。そこに、答えは書いてありました。




(前略)「エヴァ」はくり返しの物語です。

主人公が何度も同じ目に遭いながら、ひたすら立ち上がっていく話です。

わずかでも前に進もうとする、意思の話です。

曖昧な孤独に耐え他者に触れるのが怖くても一緒にいたいと思う、覚悟の話です。

同じ物語からまた違うカタチへ変化していく4つの作品を、楽しんでいただければ幸いです。



最後に、我々の仕事はサービス業でもあります。

当然ながら、エヴァンゲリオンを知らない人たちが触れやすいよう、劇場用映画として面白さを凝縮し、世界観を再構築し、

誰もが楽しめるエンターテイメント映像を目指します。



庵野秀明総監督 所信表明http://neweva.blog103.fc2.com/blog-entry-26.htmlより引用


新劇場版はループ構造を持ち、また「肯定(否定)」の選択の結果で物語が変わっていくことも指摘されています。その上で過去に指摘されたような「見た人を馬鹿にするような要素」については、「サービス業」「エンタメを目指す」との言葉で抑えられているでしょう。新劇場版では雑誌で特集が組まれるぐらいに企業の広告メディアとしての活用を取り入れており、「見た人を意図的に傷つける」リスクも少ないのではないでしょうか? その点で過去と立ち位置が変わっている感じもしています。



エヴァ」はループ的に消費されてきた作品でした。冒頭で取り上げたように、セガサターンのゲームや『鋼鉄のガールフレンド』、『綾波育成計画』、『新世紀エヴァンゲリオン2』、そしてキャラクターデザインの貞本氏によるコミックスと、キャラクターや構造は同じながらも、様々な形で消費されてきました。さらには『スーパーロボット大戦』やパチンコでの展開など、物語の接点の広がりと消費は確かに「エヴァ」の「繰り返し」を物語っています。



とはいえ、"REDO"をできたとしても、それは「行ってしまった過去」が消えることではありません。公開された次回タイトルに含まれる「シン」が「sin」(宗教的な意味での罪)と指摘されているのは、それを暗示しているでしょうか? 作り手にとって、過去の行いは「REDO」したいものであって欲しい(だから『新劇場版』が作られた)との想いは、きっと私が見たい現実を見ている結論なのでしょうが、こうした「補完」したくなる、納得したくなるところがエヴァの魅力ならば、まさしく今回のQは「エヴァ」でした。



しかし、次の『シン』で見たい方向性としては、全滅以外のエンドですね。「誰もが楽しめる」との言葉を、信じたいと思います。



ちなみに、アスカ派でした。



ブクマでご指摘を受けましたが、今もアスカ派です。