ヴィクトリア朝と屋敷とメイドさん

家事使用人研究者の久我真樹のブログです。主に英国ヴィクトリア朝の屋敷と、そこで働くメイドや執事などを紹介します。

『最初の刑事 ウィッチャー警部とロード・ヒル・ハウス殺人事件』感想

『最初の刑事』は英国に誕生した、事件を追求して解決する存在たる「刑事」の一人、ウィッチャー警部を主役としたノンフィクションの作品です。警部はディケンズも取り上げるほどの人物で、彼が扱った「ロード・ヒル・ハウス殺人事件」は「英国屋敷殺人事件」という一種のジャンルの走りともいえる出来事でした。



最初の刑事: ウィッチャー警部とロード・ヒル・ハウス殺人事件

最初の刑事: ウィッチャー警部とロード・ヒル・ハウス殺人事件





ここまで書くと、「殺人事件やミステリに興味はない」と思われるかもしれません。事実、私も「別に刑事にそれほど興味はないし、今はそれほどミステリを読もうと思わない」と、この本の存在を知ってから長らく読もうとしませんでした。しかし、実際に読んでみると、違いました。この本は、こうした「ミステリ」に閉ざすのが持ったない、むしろ、この本は2010年代以降の「英国ヴィクトリア朝社会を知るための、資料本」となる一冊です。



ノンフィクションである同書は、しっかりと「参考文献・引用」を明示して、この「ロード・ヒル・ハウス殺人事件」の調査、それを巡る人間模様、当時の証言を取り扱います。その上でこの本が非凡なのは、殺人事件を通じて、英国社会を照らし出していることです。特に、ここであえていえば、三つのヴィクトリア朝的特徴が描かれます。


1.三つのヴィクトリア朝イメージ

1-1.神聖な家庭像

ヴィクトリア朝には、現代的な核家族を軸とした「家庭イメージ」が流布しました。『英国メイドの世界』でも言及しましたが、「家庭を神聖」とする見方は政府による家事使用人への保護(最低賃金、労働時間の規制)を阻害した要因としても指摘されています。今回、この「家庭が神聖である」とのイメージが、随所で繰り返されています。



同時に、「家庭」はプライバシーの重視によって、家族だけの私的な空間ともなりました。貴族の屋敷を軸に家事使用人の歴史を学んでいくと、「城」に住んでいた頃はほとんど無かった「廊下」が増加して部屋を通り抜けた移動が減り、また使用人が主人の私的エリアから徐々に排除され、「階上」「階下」と棲み分けが進む様子も見られます。



『最初の刑事』は殺人事件を通じて、こうした価値観を浮かび上がらせていきます。「神聖な場」で起きた殺人事件の衝撃は、それだけ大きなものでした。




1830年7月10日の《モーニング・ポスト》は、こんな主張を展開した。「これだけの聖域を侵し、犯行は遂げられた。謎、入り組んだ可能性、ぞっとするほどの悪意を内包する犯罪は、わが国の犯罪史上例を見ないものだ。……家族の安全、イングランドの家庭という聖域は、この事件が未解決のままで放っておかれることがあってはならないと要求している」
『最初の刑事』P.86より引用


こうしたコンテクストは、なかなかヴィクトリア朝を巡る資料本では伝わりにくいものですが、「殺人事件で照らし出される、多数の反応」が事例として用いられることで、分かりやすくなっています。


1-2.強力な「探偵」熱に浮かされる英国

神聖な「家庭」を舞台にした事件の反響は、メディアを通じて増幅されました。中でも興味深いのは、事件の「犯人」を巡る言説の流行です。新聞だけではなく、一個人まで犯人の追及・推理を行い、事件担当者へと手紙を送りました。ここで描かれる人々の推理の熱狂に狂気を感じましたが、この辺りを「第12章 探偵熱」として取り上げています。



ホームズに代表される「探偵」はこの時代の産物といえるでしょうし、この探偵と「家庭」の結びつきが『最初の刑事』で取り上げられる背景に、高山宏さんの著作による指摘があります。




 視覚文化の中で、推理小説というものは非常に大きな意味を持つようになる。「ミステリー」という呼び方も面白いが、英米人はこのジャンルを「ディテクティヴ・ストーリー」と呼ぶ。

 我々はこの「ディテクティヴ」に「探偵」という訳語を当てて事足れりと思っているが、「ディテクト(detect)」という言葉は、「屋根のついた建物の屋根をはがす」という意味だということを雑誌『英語青年』のコラムに小池滋氏が書いているのを見て、さすがホームズ協会の大立者だねと、ぼくはおもわず膝を打った。



『近代文化史入門』P.244より引用

近代文化史入門 超英文学講義 (講談社学術文庫)

近代文化史入門 超英文学講義 (講談社学術文庫)




1-3.「見る」時代(見て、決められる・分類される)

探偵小説の中で高山宏さんが指摘された「視覚文化の中で」との言葉は、近代が「見る」時代だったことを土台としての言葉です。この「見る」を巡る言説はとても私がここで言及しきれるものではありませんが、様々なものの見方はキーワードのひとつでした。



特に、人間の外観から人物を判断する「観相学」や、骨格的なところから犯罪者の特徴を求めた「骨相学」、行動ににじみ出てしまうしぐさや振る舞いから類推を行って人物を掘り当てるシャーロック・ホームズへの道筋は、「見る」ことから生まれる分析に繋がっています。また、人間も「精神分析」対象となり、心も観察・分類されていきました。刑事小説、探偵小説も似た構造を持っていることが指摘されています。まず、外観的なところや精神的な動きから犯人を特定していこうとする手法です。



さらに、「探偵小説」自体、近代的な動きでした。「証拠」といった「点」を集めて分類し、点と点とを結び付けて「犯人・真相」を描き出そうとする手法は、近代に見られた様々な対象を観察、分類していく動きに重なり、たとえばリンネによる分類学にも通じるでしょう。



この辺りは私の専門外で、高山宏さんの様々な著作で言及され得ることですが、ヴィクトリア朝に見られた「人間を外見、身体的特徴で分類する考え」は選民思想の萌芽とも言われており(誤った事実を論理で結びつけて犯人を仕立てあげてしまう構造・危険については同書でも言及がありますが)、殺人事件を通じて非常に多様な文脈を持つヴィクトリア朝が照らし出されています。


2.英国使用人研究者としての立場から見た『最初の刑事』

『最初の刑事』には「屋敷で働く家事使用人」たちの姿も出ています。日常生活を彩る家事使用人は、不可欠の存在で、今回の殺人事件にも、この時代の犯罪でも、そして後の時代に続く犯罪小説でも欠かせない存在です。



冒頭には屋敷の図面も載っています。しかし、私は、この本で描かれる世界は、やはり「犯罪を軸に研究が進んだヴィクトリア朝に基づく家事使用人イメージ」であって、「実在する人々を軸にした家事使用人イメージ」とは異なると考えます。『最初の刑事』では、「犯罪」を軸にした引用が多すぎ、それをほとんどの使用人イメージとして伝えている印象です。



良い・悪い、間違っている・間違っていないではなく、伝え方や光の当て方、テーマの力点の違いがあると言うのが私が伝えたいことです。なので、家事使用人の資料を読んだ上で、『最初の刑事』を読むと、また違った楽しみ方も得られると思います。


2-1.「屋敷と使用人を楽しむ作品」として読みすぎるのは難しい

今回の本で描かれる使用人イメージや参考にしている資料から、あくまでもこの本は「犯罪を軸にした資料に基づくヴィクトリア朝視点」で構成され、「日常生活の資料に基づく家事使用人イメージを扱っていない」と評価します。



確かに、19世紀には家庭内に入り込む家事使用人への恐怖や、実際に犯罪の被害に遭う雇用主はいました。しかし、使用人が日常レベルで「役得」として食べ物をくすねることがあったとしても、その数多くは窃盗や殺人といった重い犯罪をしませんでした。ただ、ヴィクトリア朝ではメイドが130万人以上いて女性労働者最大の勢力となったように、あくまでも当時を代表する巨大勢力だったが故に、事件が多く見えるだけではないかと。



この点については私のひいき目かもしれませんし、実際のデータを調べて(少なくとも特定地域で表ざたになった警察が記録する使用人の犯罪件数と、同地域の家事使用人従事者数の比率)などで見えてくるかもしれませんが、『最初の刑事』で使われた主要な二次資料(『最初の刑事』P.495)、特に殺人や事件性を扱うものが1970年代頃のものである(たとえば『ヴィクトリア朝の緋色の研究』1970年、『ヴィクトリア朝の下層社会』1970年)ことを指摘します。



ヴィクトリア朝の緋色の研究 クラテール叢書 11

ヴィクトリア朝の緋色の研究 クラテール叢書 11





「殺人事件」を軸とした研究と、「家事使用人」を軸とした研究は切り離されていますし、日本ではシャーロック・ホームズなどを通じて圧倒的に前者の情報が流布してイメージが形成されているのではないかと。英国の家事使用人研究が盛り上がったのは1970年代で、この頃には実際に家事使用人を体験した人々の言葉も含めて、数多くのイメージが形成されていきました。しかし、先に取り上げた2つの巨大な影響力を持つ著書の刊行は1970年で、後の時代の家事使用人研究の影響を受けるには至っていないと私は考えます。



『ヴィクトリアン・サーヴァント』はそうした一冊ですし、私が刊行した『英国メイドの世界』も、実在した人々の声を軸に形成しています。



ヴィクトリアン・サーヴァント―階下の世界

ヴィクトリアン・サーヴァント―階下の世界



英国メイドの世界

英国メイドの世界




2-2.舞台は「カントリーハウス」ではない?

私は『最初の刑事』が「英国の邸宅における殺人事件」として注目を浴びたとのことで屋敷の構造に期待していましたが、実際に今回登場した屋敷は、「中流階級の家」であって、「領地に囲まれた貴族の邸宅」としての屋敷ではありません。



カントリーハウスの定義は様々ですが、私が抱くイメージとしてのカントリーハウスは「田舎の屋敷」という意味ではありません。私のカントリーハウスへの興味を育んだのは研究家・田中亮三先生の『図説英国貴族の城館』です。




カントリー・ハウス(country house)とは、おもにエリザベス朝末期の1590年代から、ヴィクトリア朝初期の19世紀半ばにかけて、主として貴族の称号をもつ大地主たちが、みずからの権勢を誇示するために、広大な所領(estate)に建てた壮麗な邸宅のことです。



『図説英国貴族の城館』P.4より引用

図説 英国貴族の城館―カントリー・ハウスのすべて (ふくろうの本)

図説 英国貴族の城館―カントリー・ハウスのすべて (ふくろうの本)



この基準に照らせば、今回登場するロード・ヒル・ハウスは壮麗とは言えない規模ですし、部屋数も少なく、小さいです。その上、近所に住居が立ち並んでいるので、「領地に囲まれた屋敷」ではありません。「郊外にある広い敷地を持ち、庭がある家」で、これは郊外に住宅を構えて馬車で通勤したという中流階級向けの建物です。


2-3.「見えにくい中流階級の家事使用人」像

ひとつ、この本でユニークだと思ったのは、「中流階級の家事使用人イメージ」が見えやすかったことです。家事使用人について「この本だけにしかない新解釈」があるかと言えばありませんし、前述したように、1970年代以降に見られた犯罪系の文脈を受け継ぐものだと考えます。



しかし、犯罪に巻き込まれた使用人や事件を通じて描かれる「中流階級」での仕事内容は、あまり見ないものです。特に、私は屋敷の地図を見て、屋敷で最も環境が劣悪な場所のひとつである最上階、「家事使用人の寝床があるエリア」に、「屋敷の子供たちの部屋がある」ことにとても驚きました(育児部屋ではなく)。



ここから子供たちが置かれていた境遇を読み取ることは出来ますし、逆に、中流階級の経済力で子供が多すぎる場合、確かにこの程度の広さでは家族の一員であっても部屋の配置には苦労したかもしれないと考えることもできます。メイドの中には「物置」が私室になったものもいますが、家屋が狭ければ、必然と言えるでしょう。



私は貴族の屋敷ほどには中流階級の家の構造図を読んでいないのですが(都市にあるテラスハウスの資料は多く、今回のような郊外型住宅)、『最初の刑事』を読んで、今回出てきたような中流階級の家屋構造をもっと知りたいと思いました。狭い家だけに家事使用人を吸収しきれず、通いでの使用人数も多いですし、逆に「通える」距離に使用人(+その家族)が住んでいるのは、広大な領地に囲まれた貴族の邸宅とは異なる環境を意味しています。



また、『第十章 星に流し目をくれる』で描かれた、家事使用人による「働き口を失いたくないので、子供を殺した」事件や、ロード・ヒル・ハウスの事件を巡って「使用人」に向けられる眼差しも当時の姿を伝えるもので、矛盾するかもしれませんが、家事使用人を巡る視点として面白い情報が多々あります。


3.これからの「英国ヴィクトリア朝資料」として間違いなく一流

最後に、私が知りえる範囲から情報を補足しましたが、あえて言及したのも、それだけこの本の完成度が高く、より多くの人に読まれる可能性があり、今後のスタンダードになると感じるからです。それほど、この本は「殺人事件」を入り口にしてとても読みやすく、ヴィクトリア朝の生活に興味を持たせる一冊に仕上がっています。



ミステリ小説に興味がある人にとっては最適な題材ですし、ヴィクトリア朝に興味が無い人もこの本を通じて価値観や文化を知ることができます。さらに、私たち現代人が抱く「家族イメージ」の形成や、犯罪を巡る報道と現代との類似についても、強い興味を持つでしょう。



事件にかかわった人々の最後の後日譚も、これは「現代と過去」が繋がる歴史的な興味深さを提供してくれますし、この事実を掘り当てた著者自身が、断片的な事象を繋ぎ合わせて、本書で描かれた「刑事・探偵」のような振る舞いをしているのも、印象的です。



私が取り上げた「三つのヴィクトリア朝」は様々な本に出ていますし、『最初の刑事』だけの特徴ではありません。しかし、これらの要素をとても分かりやすく、また広く流布する形でまとめ上げたのは、同書の大きな特徴だと思います。専門家向けに描かれていない本で、こうしたコンテクストが伝わるのは、私にはとても素晴らしいことに思えます。



尚、最後の余談ですが、今回の主要参考文献、その中でも一次資料として挙げられた当時の警察の犯罪事件記録は英国公文書館で入手可能で、日本にいながらも同じ情報が得られます。結構コストが高いですが、画像ファイルか紙を選べます。



犯人名が記載されているので、既に『最初の刑事』を読んでいる方だけにオススメします。



MEPO 3/61 Murder of Francis Saville Kent, aged 4 years by (省略)



私も『英国メイドの世界』を作る際、英国政府の使用人問題をまとめた資料(WW1後と、WW2後の課題としてまとめたもの)をここで入手しています。