はじめに
2021年3月7日に、『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』が公開したので、早速見てきました。これは、自分のために書いています。
私は大学の頃(10代でしたが)にテレビ版に接しており、とてもとても大好きな作品でしたし、旧劇の絶望的展開には見る人を傷つけるような表現に思えて憤りを感じつつも、「???」という気持ちがありました。「強い呪縛を受けた」というより、「よくわからん!」というのが本年のところだったと思います。
そういう流れがありつつ、その後は行間を埋める考察や、二次創作での補完計画にも向かわず、時が流れていた頃に新劇場版が始まり、「エンターテインメント作品としてのサービス精神」が旧劇と大きく変わっていることや、とにかく「作中に人が増えて、シンジが人の中にいる」ことや、「企業コラボで、製作側が大人になっている」というのを感じていました。
『破』は徹底したエンタメ作品でした。
ところが2012年『Q』の表現に、テレビ版・旧劇的な流れが帰ってきました。その時の感想を以下に書いて、自分なりに噛み砕いてきたつもりですが、もう一作あるということで待ち続けて2021年、ようやく『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』の視聴となりました。
見終わると、またいろいろと思うところが生まれたので、整理するために書いてみます。
ちなみに、アスカ派であり、いまだにアスカ派です。
・物語としての完結
・声優の方たち
・映画製作の環境・スタッフを作り上げたこと
この三軸で書きます。
以下、ネタバレです。
物語としての完結
結論から言えば、『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』は物語として完結したと思います。この先にはもう、何もないと。
私にとって、エヴァンゲリオン最大の特異性は、作品に散りばめられた圧倒的な情報量と物語の根幹にある「謎」とは何なのかにありました。キャラクター(特にアスカ)、ストーリー、舞台設定と様々な魅力に加え、作中で開示されていく情報をつなぎ合わせて「人類補完計画」を自分なりに考察したり、他人の考察を読んだりしたりすることは非常に楽しいものでした。
ところが、テレビ放送の第25話と第26話で、それまでと全く異なる展開となって「???」となりました。庵野監督作品の『ふしぎの海のナディア』や『トップをねらえ!』の作品も好きでしたし、そういう方向を楽しんでいたので、「???」と思いつつも、そういうものなのかとそこも含めての作品だと、考えました(製作時間なかったのでは、というのも感じつつ)。
その後、旧劇場版で描かれた結末は、作品のトーン・マナーに慣れていた自分にとっては衝撃的展開が続き、劇場を出た後、一緒に行った友人たちと呆然としたのを覚えています。最後のセリフが、アスカの「気持ち悪い」でしたから。若気の邪推として第26話「まごころを、君に/ONE MORE FINAL:I need you」というタイトルも含めて、「あのテレビシリーズに満足しなかったオタクたちに対して、監督からの答え」のようにも感じました。エンタメとしてどうなのかと、思いました。
以降、考察系も一切の製作インタビューも読まずに過ごしていましたが、新エヴァを作るに向けての監督の「所信表明」に「サービス業」との言葉があり、かつサービス業としての徹底を作品に感じられました。
(前略)「エヴァ」はくり返しの物語です。
主人公が何度も同じ目に遭いながら、ひたすら立ち上がっていく話です。
わずかでも前に進もうとする、意思の話です。
曖昧な孤独に耐え他者に触れるのが怖くても一緒にいたいと思う、覚悟の話です。
同じ物語からまた違うカタチへ変化していく4つの作品を、楽しんでいただければ幸いです。
最後に、我々の仕事はサービス業でもあります。
当然ながら、エヴァンゲリオンを知らない人たちが触れやすいよう、劇場用映画として面白さを凝縮し、世界観を再構築し、
誰もが楽しめるエンターテイメント映像を目指します。
庵野秀明総監督 所信表明http://neweva.blog103.fc2.com/blog-entry-26.htmlより引用
というところで、今回の『シン・エヴァ』をみていくと、過去作品を様々に踏まえつつ、エンタメとしての徹底は追求されていました。
残されたコミュニティの存在
今回のエヴァで「序」「破」と近しい空気を感じたのは、様々なインパクトの打撃を受けても生き残った人々が、集い、共同体を形成していたことにあったと思います。旧劇では「人の存在」がとにかく希薄でしたが、今回では最も濃厚に描いてきたと思います。それこそ、
「ジブリ作品の後継者は庵野監督だ!」と思うぐらいに、そしてその「人のコミュニティ」を描く中心自分となった綾波(そっくりさん)は、ジブリ作品におけるヒロインが「コミュニティに受け入れるために、仕事をする」という鉄則に従い、新しい魅力を描いていたように思えます。特に、最終的には「Q」でシンジが渡していたのに読まなかった「本」という存在を、自分で読むようになるまでに。
トウジと委員長も生存して何よりです。
そしてシンジが周囲に見守られながら支えられながら、「Qでは、何を言っているか全くわからないミサト」がヴィレを立ち上げたこと、守っている世界を体験し、垣間見て、そして綾波との別離を体験し、自ら立ち直っていくところも、「周囲を理解しようとする」とこともまた、よかったです。
アスカの「14年間」
とにかく、アスカには報われて欲しい、幸せになって欲しいというのが物語に期待していたことでした。『シン・エヴァ』でアスカは「自分のため」ではなく、「ヴィレのメンバーとして、残されたコミュニティを守る」役目を担っていました。そして、彼女に寄り添っていたのがケンスケでした。いつ出会ったのかはありつつ、仮に14年間を共にあったとすれば、身体的成長をしないアスカを支えていたのはケンスケであり、アスカもまた最後にケンスケの存在を感じたように、変化をしていました。
そのアスカを両輪で支えたのが、真希波マリでした。マリがどのようにしてあの外観となって、かつ「物語」に介入できたのか謎は残ったままですが(冬月研究室におり、ゲンドウやユイと面識ある学生という設定は貞本氏の漫画版で公開)、アスカを徹底的に支えるところや、「姫」としてサポートするところ、髪を切ってあげたり、細かな機微に気づいて寄り添うところなどは、旧劇アスカになかった環境でした。
最後の旧劇オマージュの海辺に横たわっていたアスカとシンジの会話は、もう、何とも言えませんでした。あの時、見たかったかもしれないと思いつつ、物語には段階があり、ここまで続いて初めて表現できるものだったでしょう。
旧劇オマージュと対話
徒然と書いていますが、シンジとゲンドウがエヴァに乗って戦うシーンが、個人的にはあまりにもCGめいていて、「なんでこんな作り物めいているんだろう」と思っていた矢先に、戦闘シーンはシンジの記憶のあるミサトの部屋へ、撮影セットの中へと繋がっていきます。「旧劇だ!!!」と思わず感じました。
ネタバレしない範囲では、このように表現しました。
心の中の杉元が、姉畑を見た時みたいに、ざわめくのです。
— 久我真樹 (@kuga_spqr) 2021年3月8日
ゲンドウが親切に裏宇宙での世界認識について「理解できないののは、理解できる形に置き換えられる」と説明してくれているように、これまでのエヴァでもそういう描写はそういうものであったのだろうということがありつつ、最終的にシンジが行き着いたのは、ゲンドウとの「対決」ではなく、言動を理解するための「対話」でした。
ここで語られるゲンドウについて、最も私が印象に残ったのは、パンフレットの沢城みゆきさんの言葉で、劇場版主題歌の『Beautiful World』も『桜流し』も、ゲンドウについても歌だったのかも、との指摘でした。大切な存在を取り戻すために、世界すべてを利用し、愛する人のために人類を滅ぼしても構わないというところは、確かに、主人公的ではあります。そこにきっと、マリの行動原理も重なってくるのかな、というとこもあります。
ふと調べたら、シンジが14歳の時にゲンドウは48歳ということなので、Qの時点で62歳でした。ユイの消滅がシンジ3歳ぐらいのことなので、計算すると25年ぐらいをかけて、喪失した妻に会おうとしているのです。そう思うと非常に切なく、それだけ大切な人だったのだと。テレビ放送からシン・エヴァまでの時間経過にも近しくなります……長い。
ゲンドウ、主人公じゃん、と。
主題歌の「One Last Kiss」も「ゲンドウ・ユイ」視点として聞くと、この時間の経過を感じさせます。
カヲルくん&加地さん!!!
(いい意味で)言葉がないです。
声優の方たち
パンフレットのインタビューを読んでいると、本当に、25年ぐらいでしょうか、長期にわたって作品に関わり続けられた声優の方達の見えざる努力が語られています。この作品が通常以上に、それこそ人生や日常生活を変えるぐらいの存在だったのだと、声優の方達が寄り添った上で作られた作品だと感じ入る次第です。
私が特に印象に残ったのは3点です。
1. 緒方恵美さんが監督から言われた「14歳の心を手放さないでいてくれ」という言葉
→周りが14年の歳月を重なる中で、シンジだけは眠り続けていて、14歳のまま、向き合って成長していく。
2. 三石琴乃さんが私生活でも母となり、母となったミサトとの重ね合わせ
→キャストも合わせて時を重ねることで、人生に変化が生まれて、演技解釈も変わっていく。
これについては、自分も歳をとったというのは実感としてあります。
それにしても劇中年齢だと、視聴当時はミサトさんが年上で(テレビ・旧劇)、いつのまにか並んで(序)、追い越して(破)、また抜かれて(Q)、そして追い越した(シン)というところなのか。
— 久我真樹 (@kuga_spqr) 2021年3月8日
レース展開みたいだ。
Qは2012年。
3. ケンスケ役の岩永さんが「Q」を見ず、シン・エヴァ前に見たという姿勢
→シン・エヴァに出ると言われていたものの、その作品が「Q」の影響を受けるのか、受けないのかわからなかったので。
私が個人的にこうしたエピソードが気になるのは、25年の製作期間・全70話を放送したドラマシリーズ『名探偵ポワロ』の影響です。主演のデビッド・スーシェはポワロの役作りを自分で考えて作り上げていき、またシリーズが続くかわからない状況に置かれる不安とも戦いながらも役に寄り添い続け(シーズン50話以降はほぼ製作スタッフ全入れ替え)、作り上げました。彼がいなければ名作は生まれなかったという、その真摯さが、エヴァの声優の方達の言葉からも感じられました。
あと、もう一つ思い出したのが、エヴァのテレビ放送版の収録を報じた『ニュータイプ』か何かの取材漫画で、『ふしぎの海のナディア』以来の再会となる庵野監督と清川元夢さんが、ガッチリ握手をしたというエピソードです。清川さんは85歳とのことで、初期メンバーの声優が欠けることなく揃ったのは、奇跡のようにも思えます。
映画製作の環境・スタッフを作り上げたこと
ここまで書きつつ、今回、最も素晴らしいと思ったのは、この映画を仕上げることができた点にあると思います。製作期間の長さ、物語の複雑さ、声優だけではなく、製作スタッフにも求められるクオリティの高さ。そのすべては、個人でも一過性でも実現できるものではなく、時間をかけて組織的に成長していき、総監督がリーダーシップを発揮し、それを支える前田真宏監督や鶴巻和哉監督を筆頭にした方たちがいてこそだと思います。
特に、前田真宏監督の今回のインタビューを読むと、いかにして庵野総監督に全力を出してもらうかという役回りに徹して検診しているかが伝わってきます。作品完成のためにいい意味で手段を選ばず、自分のクリエイターとしての個性の発揮しどころも見極めているように思えるのです。
かつ、声優の方達が「歳月」で表現の幅を変えたように(あるいは軸は変えなかったように)、『シン・エヴァ』では大きく製作プロセスも変更されているとのエピソードも盛り込まれており、これらは実写映画の『シン・ゴジラ』ので体験、前田監督の『マッドマックス 怒りのデス・ロード』での経験を含めて、最新の動向が取り入れられており、これもまた「クリエイターとしての成長・変化」という、「その時では表現できなかったことができるようになった」ことを感じるものです。アニメは基本的に「絵コンテで決まったところ作り込む」のに、「絵コンテがない=膨大な作業量=使わないシーンも出る」というプロセスを取り入れていたということで、青ざめそうな作業量なのでしょう……
こうした製作環境を実現できたのも、企業協賛が非常に幅広く、多いことにもよると思います。また、今回のインタビューでは、シンジが立ち直っていくところに関して緒方さんに意見を求めるなど、「人の意見を反映して、最善を求めていく」部分での変化もあったように見受けられました。最高を作るために、様々に手段を用いて、人を巻き込んで、到達したのではないかと思うのです(この「人に聞く」というところで最も変化を感じたクリエイターは、別作品ですが、新海誠監督です)。
チームでの成功には「素晴らしい人材を集めるか」という話にもなりそうですが、才能を発揮できる環境づくりや役割分担、新しい知識・体験を取り入れることでの組織的成長など、『シン・エヴァ』公開を迎えるまでの流れが興味深いものであり、それらを総合的に見て「カラー」という会社の存在こそが最大の成果であり、そうした「作品を作る環境を作った」「関わった人たちも成長していた」ということが、1990年代には見られなかった作品全体の底流にあるものではないかと思いました。
このような観点で見るようになったのは、自分が歳をとったからですね……
終わりに
以下、Qの感想の終わりに書いた願いは、叶ったと思います。
とはいえ、"REDO"をできたとしても、それは「行ってしまった過去」が消えることではありません。公開された次回タイトルに含まれる「シン」が「sin」(宗教的な意味での罪)と指摘されているのは、それを暗示しているでしょうか? 作り手にとって、過去の行いは「REDO」したいものであって欲しい(だから『新劇場版』が作られた)との想いは、きっと私が見たい現実を見ている結論なのでしょうが、こうした「補完」したくなる、納得したくなるところがエヴァの魅力ならば、まさしく今回のQは「エヴァ」でした。
しかし、次の『シン』で見たい方向性としては、全滅以外のエンドですね。「誰もが楽しめる」との言葉を、信じたいと思います。
「物語」の面白さは、「その続きの物語」を作ることで、「過去の物語」の価値を改変できるとことにあると思います。個人的には旧劇にこめられていた「気持ち悪い」の要素は残りつつ(もっと伝え方がエンタメとして上手くなった)、ある種の「解呪」「解毒」の意味合いを持つ作品にもなっていたのではないかと。
ただ、真希波マリのところでスッキリしないものは残りますし、そもそも漫画の方向性でいくならば、最終的に目的を達成したのはマリなのではないかと謎が残るところです。シンジはレイでもなく(序盤で浄化・区切り)、アスカでもなく(アスカの14年を考えると必然か)、しかしマリなのか、という。
あと最後、シンジくんが声変わりしているので声優変わってますよね? キャストだと神木隆之介さん? このエンディンについて気になる方は、ぜひ漫画版を。
いろいろとまた2回目を見たら書くかもしれませんが、沢城みゆきさんによる劇場版主題歌の『Beautiful World』も『桜流し』もゲンドウについても歌だったのかも、との指摘を思い出しながら、最新作主題歌の『One Last Kiss』も聞きたいと思います。
そして、「さようなら、全てのエヴァンゲリオン」。
余談:「人類補完計画」は救済なのか?
私が旧劇で理解できなかった「人類補完計画の結末が、個としての形を失う」ことについて、補足しておきます。たまたまここ1年ぐらい、エヴァが背景としているキリスト教・ユダヤ教の救世思想、特にエヴァで「生命の木」がモチーフとして使われた「カバラ思想」の歴史を学ぶ機会がありました。
ユダヤ神秘主義 〈新装版〉: その主潮流 (叢書・ウニベルシタス)
- 作者:ゲルショム ショーレム
- 発売日: 2014/05/21
- メディア: 単行本
このユダヤ教神秘主義として発展した「カバラ思想」のひとつに、「生命の木」によって語られる世界創造の神話と救済の物語があります。世界は神から創造され、最初の原人間「アダム・カドモン」が生まれるも、神の栄光があふれて世界が形作られる中で要素(セフィロト)の一部が破損し、「殻」(クリフォト)が生まれてちらばるというものです。神秘主義者(イサク・ルーリア)は人間たちがその世界の破片の修復を行い、「アダム・カドモン」へと還元する、という救済思想を発展させました。救済とは、「回帰」(今より、より形がある)という着想です。
エヴァンゲリオンにおけるカバラモチーフは、以下の書にて徹底的に考察されていますが、「世界の滅亡」(人類が個を失う)が、思想によっては「救済」となるという視点を押さえておくことで、「人類補完計画」が目指していたことの理解に繋がりました。旧劇でポンポンと人が弾けて形を失う際に姿を見せる「自分が願った人」か「綾波」という存在も、「神の臨在」(シェキナー)という言葉にて体現されると解釈されています。