ヴィクトリア朝と屋敷とメイドさん

家事使用人研究者の久我真樹のブログです。主に英国ヴィクトリア朝の屋敷と、そこで働くメイドや執事などを紹介します。

『君の名は。』感想(ネタバレあり)





新海誠監督の最新作『君の名は。』を見てきました。新海誠監督の作品をきちんと見始めたのは2007年の『秒速5センチメートル』がきっかけでした。当時、この作品の第1話がYahooで公開されており、その桜の描写と、『秒速5センチメートル』という言葉、そして描かれた新宿の風景に興味を持ち、公開時は劇場まで行きました。桜、大好きなのです。そこから、過去作品を一気に見ました。



その後、新作が出るたびに見ていました。そして最近、久々の新作ということで映画より先に出た小説版を読み、公開初日に劇場へ行きました。今回は小説版を先に読んでからですが、「あと少しだけ」に届いた物語に、接することができたように思いました。そして、時間を経て遠ざかっていく物語から、近づいていく物語へと。



劇場の客層は幅広く、男女比が結構近しかったように思いました。全体には学生や20代前半が多かったです。自分自身は物語を楽しむ気持ちがありつつ、今回、新海誠監督はどういうふうに物語に決着をつけるのかが、とても気になっていた。で、多分、そういう心理で見る人を想定した展開もありました。



小説を先に読んでから映画を見て驚いたのは、小説では主体的に描写されなかった東京の舞台が描かれた際、知っている景色が多かったことです。こういう「小説」と「映像」といった表現手段の違いによって生じる驚きは、結構、好きです。個人的には、新宿や代々木、四谷、千駄ヶ谷、六本木など、見知っている景色が美しく描かれて、「桜の美しさ」に通じるものがありました。特に新宿は大学時代や会社通勤で20年以上使っていますし、新宿での買い物も多いので、だいたいが見知った場所でした。今日映画を見に行く時に通った道も、写り込んだ映画館も、六本木ヒルズも、国立新美術館も、代々木駅のホームも、様々な場所も。「仕事」を象徴するオフィスビルは、『秒速5センチメートル』同様に、西新宿のビル群で、そこは原風景のようなものなのかもしれませんね。



ということで、以下、ストーリーに触れるネタバレでの感想です。改行します。




































































想い人と出会えた主人公

端的に言えば、新海誠監督作品の共通テーマと感じていた、「ここではないどこかにいる誰かを探すことで、目の前よりもそちらの世界に手を伸ばしてしまう」「理由のない喪失感」「現実の居心地の悪さ、欠落感」。その要素を小説版では「あと少しだけ」と表現していましたが、そこに手が届いた作品だったと思います。今回、主人公はその欠落の理由を持ち、かつその欠落を埋める想い人と出会うことができました。



秒速5センチメートル』ではその表現が端的で、中学時代の初恋が強すぎたが故に、少年の方はその後も彼女の面影を探し続けて、それを自分の心の中に置いたまま、高校時代もそして成人してからも、人と付き合っていても傷つけてしまう結末を迎える展開となっていました。それはさながら、呪いのようでもありました。



ほしのこえ』は別離から始まって二度と会うことができない関係で、「私たちは、たぶん、宇宙と地上にひきさかれる恋人の、最初の世代だ。」とのフレーズに全てが表現されています。次の『雲のむこう、約束の場所』も恋心を抱いていた少女が突然消えてしまい、彼女の行方を捜し、取り戻すために行動する少年が主人公でした。



最も強い印象を残した『秒速5センチメートル』で、結局、第1話で強く結ばれたはずの少年・貴樹 と少女・明里は、その後、別々の人生を歩みました。ラストシーンでふたりは踏切ですれ違い、出会えそうになりますが、通り抜けた電車が邪魔をして、貴樹は足を止めて電車が去るのを待っていたものの、明里は去っていき、お互いの顔を見ることはかないません。



「物語」の解釈によりますが、「あれ、ここで出会わないのか」と思ったものの、 [小説]『秒速5センチメートル』を読むと、貴樹の方は「明里とすれ違っていたならば、奇跡」と肯定的に捉えて、それからの一歩を踏み出していったように見えました。



その後、『星を追う子ども』は宮崎駿監督作品的な世界なのかなと思いつつ、別の世界・アガルタへと導かれていきます。この作品もその点では、「目の前の現実では得られない世界」を求めて、「ここではないどこか」へと旅立っていく話です。現実に喪失感があり、それを補完するものとして、「運命の人」「運命の場所」(宇宙空間や別世界)を希求して、現実よりも優先してしまい、今の自分を幸せにすることを許せないような強迫観念に似たような。



続く『言の葉の庭』では、これまでと表現が少し変わったと思えたのは、男子高校生と年上の女性の高校教師が気持ちを通わせた後、別れを迎える選択をした高校教師を、男子高校生が追いかけて、繋ぎとめようとしたことです。ここで主人公は自ら動き、その先がどうなるかはさておき、人と人が結びつくことを選ぼうとしました。



今回の『君の名は。』は、「少年と少女が出会う」という物語を描き続けたこれまでの作品の構図を持っており、主人公の少年が「運命の人・ここにはいない誰かを求め続けて、喪失感を抱える」という、これまでと共通した生き方をするのか、しないのか、新海誠監督がどういう描写を選択するのかが、個人的な注目点でした。


時間の経過の仕方と描写の変化

同じテーマが、形を変えて、その表現の仕方が歳月とともに変わっていき、広がっていき、響いた音によって作品自体も変わっていって。そんな「ほしのこえ」からの16年で描かれた円環を、感じ入る次第と、Twitterで感想をつぶやきました。これを言語化しておくと、最初の作品 『ほしのこえ』は時間と距離が隔たって行き、それは二度と戻ることがありませんでした。こうした「存在をお互いに自覚しながら、会えない」ことは、作品の根底に流れる喪失感にも繋がります。



今回の『君の名は。』は同じ時間をテーマにしつつも、終わった過去の時間を書き換えることで、現代の未来を書き換えていく展開で、その辺りは、不可塑的だった物語が、16年の歳月を経て、可塑的になっていったこともまた、上記に記した主人公が抱える喪失感が解消されるかとあわせて、大きな変化だったように思います。



かつ、小説版のあとがきを読むと、今回の作品は音楽をプロデュース・楽曲提供したロックバンドのRADWIMPSや映画監督、プロデューサーなど多くの方と作り上げたことで、作品の方向性も変わったのではないのか、と思えました。




小説は一人で書いたものだけれど、映画はたくさんの人によって組み立てられる構造物である。『君の名は。』の脚本は、東宝(映画会社です)の『君の名は。』チームと数ヶ月にわたり打ち合わせを重ねて形にしていったものだ。プロデューサーの川村元気さんの意見はいつもキレッキレで、僕は時折チャラいなあと密かに思いつつも(重要なことも軽そうに言う人なのです)、常に河村さんに導いてもらっていたと思う。(小説版より引用)


こうした点も鑑みると、一人で制作を始めた作品が広がり、その自身の発した作品によって多くの人に響き、動かし、その反響を自分自身も受けて、作品表現が変わっていったのかもと、思えました。


小説版と劇場版で最も驚いた場所

小説版と劇場版で、それぞれ「新海誠監督のこれまでの作品を知っている」からこそ、「え〜」と驚かされる箇所がありました。



小説版では成人した立花瀧(主役の少年)が、カフェで結婚するアベックの会話を聞きます。ここで「てっしー」という名前が出てて、これまでの新海誠監督作品のファンとしては、「え? 宮水三葉(主役の少女)とてっしー(三葉の高校の同級生)が結婚したの?」と一瞬、思ってしまいます。これがアニメでは映像で描かれているので、てっしーの結婚相手がもうひとりの高校の同級生・名取早耶香とわかります。



一方、劇場版の罠は、新宿警察署近くの歩道橋で雪の日にすれ違う、成人後の瀧と三葉の描写です。小説版では上記のカフェのエピソードの後、瀧と三葉は運命的な出会いをしていますので、そのふたりが最初にすれ違う歩道橋での描写が出会いのシーンになると思っていたものの、片方が振り向くと片方が背を向けて、お互いがお互いを意識しつつ、結局、ここでは別れてしまうのです。



「あれ、これはもしかして、『秒速5センチメートル』展開ですか?」「小説版と劇場版は違うエンディングですか?」と思いこまされそうになるものの、その後のシーンで、ふたりは出会うことができました。非常に主観的ですが、ここでふたりが出会うシナリオが作られた点で、新海誠監督作品で描かれるものも、変わってくるのではないかと思えたのです。



「ボーイミーツガール」作品として、主人公がようやく始まれるスタート地点に立てる結末を迎えられたことが、その作品が作られたことが、これまでの作品のファンとしては感想を書かずにいられないものでした。




あとすこしだけでいい、と俺は思う。
あとすこしでいい。もうすこしだけでいい。
なにを求めているのかもわからず、でも、俺はなにかを願い続けている。
あとすこしでいい。もうすこしだけでいい。
(小説版より引用)


この「なにかわからないなにか」として「あとすこしだけ」を願い続ける気持ちは、『秒速5センチメートル』を代表として感じた喪失感の描写の根底にあるものでしょう。その喪失感がようやく解消する、そのあとすこしだけに手が届く、それが『言の葉の庭』を経て、新海誠監督作品に感じられたことでした。届くことを、選んだのだなと。



この次の作品で、どのように広がっていくのか、楽しみです。



そして、この作り手としての表現の変化から想起したのは、ドストエフスキー作品です。



『白夜』や『虐げられた人々』、『罪と罰』、『悪霊』など、ドストエフスキー作品の登場人物たちの中には、「幸せになることを恐れている」「幸せになる選択をするならば、すべてをめちゃくちゃにしてしまう」ような強迫観念を持っている描写もありました。



しかし、最後の作品『カラマーゾフの兄弟』で登場した主役たるアリョーシャ・カラマーゾフは、ドストエフスキーの作品とは思えないほどに、人と人の間に生き、行動的で、誠実でした。そうした、ドストエフスキーのメインキャラクター描写の変化に象徴されることに似ているかもというのが、今回の映画を見て感じた、自分の中で最もしっくりくる感想でした。