ヴィクトリア朝と屋敷とメイドさん

家事使用人研究者の久我真樹のブログです。主に英国ヴィクトリア朝の屋敷と、そこで働くメイドや執事などを紹介します。

資料サイトの名前を本サイトと同じにする・随時増加中

WordPressで作っていた資料情報サイトSPQR[英国メイドとヴィクトリア朝研究]を、ホームページと同じ名前に戻しました。ついでにホームページの方もシンプルにしようと試行錯誤中です。



ページ数も増えてきて、紹介している資料は参考資料(34)+小説/コミックス(3)+映像(11)となりました。資料紹介なのか、資料の扱う時代の歴史背景紹介なのか分からないところもありますが、地道に更新して500ページぐらいを目指したいと思います。



情報自体は良いと思うのですが、適切なカテゴライズ(この本を読む前にこの本を読むべき、あるいはこのテーマに興味を持つならばこの本を順番に押さえたい)ができていないので、その辺りは考えていきます。また、そのうち、いくつか過去に質問を受けたものをFAQとしてまとめるつもりです。



以下、資料情報サイトのカテゴリです。



宮崎駿監督アニメの服装とメイド服イメージについて

昨日、『ルパン三世 カリオストロの城』を見ました。クラリスの衣装を見ていて「いいなぁ」と思いつつ(潜入中の不二子の服装もですね)、あらためて「宮崎駿監督的スカート・袖・ドレス」の描写が、ヨーロッパ的でかつクラシカルな雰囲気の衣装の原点のひとつ(現代日本で「クラシカル」と呼ばれるメイド服のデザイン含めて)ではないかと、感じました。



ルパン三世「カリオストロの城」 [Blu-ray]

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メイド服とは、宮崎駿監督作品の要素の一部を具現化したもので、宮崎監督作品が国民的映画として慣れ親しんだ日本人なればこそ、受け入れられている(間口の広さは不明ですが)のではないか、という仮説を私は持っています。



メイドブームがどう成立したかではなく、「誰がメイドブームを受け入れたか」という観点での考察を交えつつ、話を広げて行きます。相変わらず直感に頼っていますが、この辺りは後日調査したいと思っていますし、大学生で服飾関係・メイドブームを考察したい方はこの観点での論考はいかがでしょうか?(人頼み)


目次

  • 宮崎アニメによる「クラシック」な服装描写
  • ヨーロッパ的なるものとメイドブーム(を受け入れた方々)との関連
  • 余談:「ヴィクトリア朝的服装表現」とメイド表現と
    • 日本のメイドブーム関連
    • イギリスのメイドブーム関連(1970年代)


宮崎アニメによる「クラシック」な服装描写

以前、『借りぐらしのアリエッティ』感想とスタジオジブリが描く「風景」(2010/08/08)という感想を書きましたが、『カリオストロの城』を見て、同様のことを想起しました。



ここでクラリスのエンディング付近のドレス(ウェディングドレス)の話に飛びますが、緩やかなラインのスカートに袖がやや膨らんだ、「クラシックっぽい」デザインをしています。ふと思い出したのは、ヴィクトリア朝を舞台にした貴族の屋敷での人間模様を描いたコミックス『Under the Rose』の作者・船戸明里さんによる、「ヴィクトリア朝らしい袖」についての言及です。



作画ミスについてと題する日記の中で、自身が作品で描いた作品での描写について、「描いたデザインはヴィクトリア朝のある一時期のものに過ぎず、全体を代表していない」と、解説をされています。全文を是非読んでいただきたいのですが、この中で非常に面白い指摘が、その袖のデザインを船戸明里さんに刷り込んだ作品が、宮崎駿監督もかかわっていた『名探偵ホームズ』(犬ホームズ)を挙げている点です。




ヴィクトリア朝といえばあの袖」は、間違った感覚であると言い切ってみます。



私が刷り込まれたのは、犬ホームズのハドスン夫人なんですけれども。



めもちょう作画ミスについてより引用


私がここで思い起こすのは、ヴィクトリア朝メイドのロマンスを描いた『エマ』の作者・森薫さんのコメントとしてもハドソン夫人の名があがっていたことです。それは、『エマ ヴィクトリアンガイド』で、森さんが尊敬する漫画家・竹本泉さんとの対談の中で出てきます。




竹本 そういう森さんはメイドはずっとお好きなんですか? きっかけ?
森 きっかけは『ホームズ』のハドソン夫人かな? メイドじゃないけどああいう立場の人が好きなんです。家族じゃないけど世話してくれる人みたいな。
『エマ ヴィクトリアンガイド』P.149より引用


ここでは主に立場的な話になっていますが、森薫さんの表現で宮崎駿監督作品、特にハドソン夫人描写で重なるのは、「走る女性」の姿です。スカートを持って全力で走り、そのときにドロワーズが見える描写(知人の方いわく「ドロチラ」)は宮崎駿監督作品でも見られる描写です。強引な主観かもしれませんが、『エマ』5巻で火事のエピソードで全力で走るエマの躍動感は『名探偵ホームズ』で飛行機を操縦するハドソン夫人に重なります。



宮崎駿監督作品では「全力で走る女性」と「緩やかなラインのスカート」を両立させるためにドロチラが成立していると思いますが、と本筋からずれてきましたが、日本を代表するヴィクトリア朝作品を描かれる漫画家の方々に影響を当てている点で、この界隈の表現と宮崎監督作品は切り離せないのではないかと思うのです。


ヨーロッパ的なるものとメイドブーム(を受け入れた方々)との関連

なぜこの領域の作品が強い影響を受けたのかに、私は興味があり、仮説として、世界名作劇場などのアニメと、過去に放送していた海外ドラマの影響があったことを考えています。そして、こうした諸作品に接していたのは漫画家の方たちだけではなく、私たち読者・視聴者も含まれており、それがメイドブームの広がりに繋がったのではないかと考えています。



私が見た範囲の出来事を、日本ヴィクトリア朝文化研究学会にコラム「日本におけるメイド受容とメイドの魅力」を寄稿しましたが、その際、担当いただいた大学の先生の方から、「『世界名作劇場』がヴィクトリア朝を学ぶきっかけの一つだったかもしれない」との感想をいただきました。



後日、データを増やしたいと思いますが、まず私をサンプルとして振り返ってみます。私は19世紀的な生活文化の描写が好きです。その原点は子供の頃に見た世界名作(アニメ)やその原作小説でしょう。『若草物語』『トム・ソーヤの冒険』、『小公子』『小公女』『秘密の花園』などの作品は今でも覚えていますし(『赤毛のアン』はなぜか、重なっていないのですが)、メイド服に見られるゆるやかなラインのスカートのデザインが好きなのは、確実に『若草物語』の影響です。同人活動の原点の一つは『若草物語』における生活描写への関心(クリスマスプレゼントのお返し、モスリンやライム、失敗した昼食会など)や、時系列を知りたいと思って原作を読み込んで整理したことでした。



アニメだけではなく、英米文学作品、そして映画やドラマも入り口になるでしょう。船戸明里さんはかつて放映されたドラマ『赤毛のアン』『アボンリーへの道』『大草原の小さな家』や『ドクター・クィン』などを日記で紹介されていますし、森薫さんはオペラを題材にした作品を描かれるように衣装劇にも目を向けられています。私も、屋敷へ強い関心を持った原点はアガサ・クリスティー原作のドラマ『名探偵ポワロ』です。



多分、私と同年代(前後10年)の年齢層の方にとって、アニメ作品(宮崎駿監督作品含む)、英米文学(高校や大学で学んだかもしれない)、NHKなど地上波で放映されたドラマシリーズ(ホームズ、ポワロ、赤毛のアン、場合によっては『高慢と偏見』)は非常に幅広く接する機会があったはずで、メイド喫茶で描かれる「クラシカルなメイド」とは、これら諸作品に接してきた人々にとって「作品世界が具現化した」存在ではないか、ヴィクトリア朝や館、メイドの作品は受け入れられるのではないか、というのが私の仮説です。



誰もが最初からメイドの魅力にゼロから目覚めたのではなく、「メイドが表象する何かしらの要素」と、「自分が接してきた諸作品」とが響きあったからと。その接してきた作品に宮崎駿監督がかかわる作品(『カリオストロの城』『天空の城ラピュタ』『魔女の宅急便』『ハウルの動く城』。『耳をすませば』と『借りぐらしのアリエッティ』ではヨーロッパ的描写)が含まれるならば、受容する人たちの間に年代の断絶はないのかもしれません。


余談:「ヴィクトリア朝的服装表現」とメイド表現と

私の考察は以上となりますが、先ほどご紹介した船戸明里さんの日記に、「ヴィクトリア朝的とされた袖」について、メイドブームのヒントになるコメントがあります。




あの袖が日本の漫画アニメブームで流行ったのは、本物の「当時の資料」(資料を見て作られたものは映画も漫画も「当時の資料」にはなりません)抜きに「人の絵を見て描く」ことを繰り返した結果ではないでしょうか。



 コピー、孫コピー、ひ孫コピー、と複製されていつの間にか本物よりも本物らしく市民権得ちゃったみたいな。



めもちょう作画ミスについてより引用


船戸明里さんはヴィクトリア朝を昭和になぞらえていますが、まさに、昭和前期と末期がまったく違う生活レベル、文化でした。「ヴィクトリア朝」という時代も昭和と同じくらい続いていたわけで、前期と末期が同一なはずもありません。しかし、細分化していくと大変なわけで、情報量が膨大になります。何かを伝えていく上で情報が理解されやすい形で簡略化されていくのは必然です。話は逸れますが、その言葉は、資料を作っている私自身にも返ってきます。



メイド表現も「何が本物」であったかはさておき、表現が様々な手段で繰り返され、相互に参考にされる(イメージの相乗り)うちに、ブームとなっていったのだと思いますし、メイドブームを理解する上での難しさも、「この考察は、どの資料に依拠しているのか」が自分には分かりにくかったことにもあります。



そういう意味で、年代別・時代別のメイド服(表現、実在を問わず)をリスト化したいなぁと妄想していますし、それによってメイドを見る眼差しも見えてくるのではないかと思います。



この辺りは前回も取り上げましたが、『創られた伝統』が重なります。スコットランドの「古くからの伝統」と思える「部族によって異なるキルト」が、実は産業革命期に創られた新しい「伝統」に過ぎない(リンク先:BBCの講義)、というのです。


創られた伝統 (文化人類学叢書)

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(2010/10/10:注:200年経過したものは「新しい」とはいえず、「伝統」と主観的に認識されるのではないかとの質問がありました。この点、おっしゃるとおりです。私の意図としては、「18世紀に『伝統』とされた出来事」=その時点では伝統ではないことが、200年後にあっては『伝統』となりつつも「200年よりさらに以前の古来からの出来事として認識される」ことがある、という意図で「新しい」と書きました)



キルトに限らず、日本でも観光資源として伝統が創られることは多くありますが、ブームを引き起こしたメイドは半世紀後の日本で語り継がれて、「日本の伝統」となっているでしょうか? 半世紀後の方が現在の諸作品を見たとき、「どうしてメイドがそこかしこに登場するのか」「日本はメイドが雇用されていたのか?」と誤解するのでしょうか。



さらにどうでもいい余談ですが、DVD版とBlu-ray版でクラリスの衣装が違うのはなぜでしょう。Blu-ray版は長袖、DVD版は半袖+手袋ですね。



ルパン三世「カリオストロの城」 [Blu-ray]

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ルパン三世 - カリオストロの城 [DVD]

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メイド・執事、使用人の規律・訓練、フーコー的観点

メイドや執事といった使用人の歴史を学んでいて、以前から疑問に思っていたことがあります。ヴィクトリア朝に見られる、上級使用人と下級使用人の間に存在する厳しさ、「規律」と、分業制度に見られる細かな役割分担はいつ始まり、どこから来たのか、という観点です。



規律でいうと、たとえば上級使用人がいる昼食の際に下級使用人はおしゃべりを禁じられています。また、下級使用人は先に食堂となる使用人ホールに入り(遅刻現金)、上級使用人たちは後から並んでホールに入ってきます。そのとき、下級使用人は規律して上級使用人を迎えました。



食事中の沈黙については、同時代から見ても不可思議なことだったと、19世紀後半から使用人となったEric Horneは語ります。ある屋敷に勤めていた頃、彼は父の訪問を受けました。屋敷の執事は父を歓待しますが、その食事の席で父が冗談を飛ばしても誰も反応をせず、不思議に思った父にHorneがあとで事情を説明しました。



屋敷の中は大勢の人間が働き、細かなタイムスケジュールも決まっていました。主人が生活する空間では「姿を見せるべきではない」「声を出すべきではない」とされた使用人にとって、上級使用人による規律の徹底は意味があったのでしょう。



こうした規律への順応と同時に、使用人は実務の訓練を受けました。誰かに何か仕事を任せ、上位者の指示したとおりに果たさせる。訓練として、上級使用人は主人に接する前の見習いの若手を、自分自身の使用人として、身の回りの世話もさせました。さながら主人のように、上級使用人は下級使用人の上に君臨しました。



仕事を果たす上でもう一つ重要なのが、分業制度です。たとえばヘッド・ハウスメイド、セカンド・ハウスメイド、あるいはファースト・フットマン、セカンド・フットマンなど、大きな屋敷で大勢のスタッフが所属する職種では、職位によって給与と仕事の役割が違いました。個々の職位にどのような業務を割り振るか定義したのが主人であったり、屋敷に残るマニュアルであったり、執事やハウスキーパーの上級使用人でしたが、こうした職位の制度による分業は、私には極めて現代的であるように思えます。しかし、発想はどちらかというと逆で、現代の会社システムが過去に存在した組織を模倣しているのが正解でしょう。



では屋敷はどこから影響を受けたかというと、商業組織として18世紀には存在していた工場や商業施設、さらにさかのぼれば軍隊、というとことになるでしょう。貴族の屋敷に始まる大規模な使用人の雇用の歴史は、権力者の下に有力者の子弟が集い、有事の軍隊、平時は使用人というような形態をしていました。



19世紀初頭の貴族の屋敷の使用人は、少なくとも、規律重視の影響を受けた時代よりも自由でしたが、中流階級の雇用主が増えるに従って、屋敷にも規律・訓練・時間厳守という産業を支えた概念が大幅に取り入れられていったとの指摘がされています。



規律・訓練・分業。この考え方は私にとって馴染んだものでしたが、19世紀の屋敷で確立していった価値観の根源を求めていく中で行き当たったのが(たまたま知人に示唆を受けて)、フーコーの『監獄の誕生』でした。



監獄の誕生―監視と処罰

監獄の誕生―監視と処罰

フーコー入門 (ちくま新書)

フーコー入門 (ちくま新書)

生と権力の哲学 (ちくま新書)

生と権力の哲学 (ちくま新書)



最近、フーコーの関連書籍を読み始める中で特に印象的だったのは、詳細に決められた時間割と、人間の行動を規定して従わせる「規律・訓練」でした。その一部は使用人の世界に見られたものに類似しており、「定義した業務を、時間通りに、そして雇用主の決めたルールに基づいて行わせる」点で、重なりが多く見られました。フーコーの分析対象として使用人組織は上がっていませんが、少なくとも、使用人の組織構造も、少なからず同時代の影響は受けていたと考えられます。



"Discipline, discipline, discipline."(規律、規律、規律)



この言葉は、20世紀初頭のエドワード朝での屋敷の暮らしを再現したドキュメンタリー『マナーハウス』で、執事の役割を担った男性が部下となった若い使用人たちの行動を嘆いたときに呟いた言葉です。今にして思うと、フーコーが『監獄の誕生』で描き出した、象徴的な言葉が使われています。







フーコーの話はまだ私には分からないこと、未知なことが多く、現在消化中ですが、近代に成立した価値観の延長線上である今を生きているので、今後も広げて行きたい領域です。特に、ヴィクトリア朝フーコーの研究領域との重なりが多くあります。(国勢調査、救貧院、福祉国家の誕生という考え方についても)



知への意志 (性の歴史)

知への意志 (性の歴史)

狂気の歴史―古典主義時代における

狂気の歴史―古典主義時代における

ヴィクトリア朝の生権力と都市

ヴィクトリア朝の生権力と都市



とここまで書いておきながら、分業制度はまた別の話となりますし、こちらはアダム・スミス的なところもありますので、別途、調べていきます。使用人の歴史を学ぶことは、様々な領域に繋がっています。


NHK-BSにて『実践!19世紀エコライフ 〜ビクトリアン・ファームの秋〜』

以前、ブログで御紹介した、ヴィクトリア朝の農場での暮らしを体験する『Victorian Farm』が、08/19〜20の間に、NHKのBSで放送していたようです。現在、NHKオンデマンドでも視聴可能とのこと。



実践!19世紀エコライフ 〜ビクトリアン・ファームの秋〜



"DVD『Victorian Farm』



このシリーズもの、異常に多いです。中世の生活、開拓者の暮らし、鉱山労働、第二次大戦中戦時下の暮らしなど、同じテレビ局が同一のシリーズを作っているわけではないのですが、英国では人気の番組構成なのでしょう。



ちなみに、最新作は『Victorian Pharmacy』、ヴィクトリア朝の薬局というもので、今度、DVDが出ます。



Victorian Pharmacy: Rediscovering Forgotten Remedies and Recipes

Victorian Pharmacy: Rediscovering Forgotten Remedies and Recipes





上記は書籍版で、DVDはAMAZON.CO.UKで予約できます。



The Victorian Pharmacy [DVD]



また、続編として『The Edwardian Farm』もある模様です。



Edwardian Farm: Rural Life at the Turn of the Century

Edwardian Farm: Rural Life at the Turn of the Century





このシリーズで最も有名なのは、『MANOR HOUSE』でしょうし、NHKで過去に放送した1900年の中流階級の家庭の暮らしを描いた『THE 1900 HOUSE』でしょう。「外れ」というか、やりすぎて失敗したのは『THE REGENCY HOUSE PARTY』だと思います。



[映画/ドラマ/映像]MANOR HOUSE(マナーハウス) 英國発 貴族とメイドの90日

『THE 1900 HOUSE』感想

『REGENCY HOUSE PARTY』感想


英国資料・映像更新情報

ヴィクトリア朝を中心に資料を集積・整理している自分のサイト「英国ヴィクトリア朝の暮らし[SPQR]」にて、3〜5月で更新した情報のリストです。新規の書下ろしと、過去にブログで掲載したものの再編集分を更新しています。


ヴィクトリア朝の表現規制と作家

ヴィクトリア朝は『シャーロック・ホームズ』のイメージや、『エマ』のメイドなどで街並みや衣装、生活様式といった点で伝わるところも多いですが、価値観、特に道徳面では非常に厳しい時代でした。社会に力を持った中流階級福音主義と呼ばれる、宗教上の立場を尊重していました。



福音主義は生涯をかけて信仰に沿った敬虔な生活を続け、「来世の準備」として現世を生きる考え方とされています。プロテスタントのひとつの立場で、代表的なものが18世紀にメソディスト派です。メソディスト派は福音主義にのっとり、清貧を重んじ、形式的儀礼より道徳的生き方や振る舞いを通じて魂の幸福を求める信仰活動を行いました。



日々をどう生きるかによって評価されるとなると、日々の行動に宗教的価値観が強く取り入れられました。ヴィクトリア朝中流階級では道徳的であることと信仰に沿った生活が望ましいとされましたが、その一方で、商工業を従事するプロテスタントの人々の間には、「日々、勤勉・節制・自助自立で働いた結果、財産は蓄積される。その財産は、信仰心の賜物である」と彼らの生き方を肯定する考え方がありました。労働は神聖、とする考え方もこの同じ流れです。



宗教に沿った労働をして財産を得ることは肯定されました。一定レベルの暮らしをすること(家族にさせること)は自身の財産を証明し、ビジネスを行う上での評価や信用に繋がりました。清貧の思想はその点で置き去りにされたかもしれませんが、勤勉で自立した暮らしを営み、道徳的に振る舞い、清潔であること、家事使用人(メイド)を雇うことなどは、「リスペクタブル」であると評価されました。



人から見られるであろう評価によって、自分の価値が決められてしまうともいえましたし、貧しき人々を「財産が無い→怠惰・信仰が無い」と見る視点があり、内面ではなく、外見や財産の消費で人を判断する時期ともいえました。この時代を生きる人たちは「他者からどう見えるか」を気にして、その基準に沿おうとしたともいえます。その基準のひとつは、「道徳」でした。



道徳的の範囲は自己の生活だけではなく、労働者階級や上流階級へも拡散していきました。庶民の間にあった熊いじめや闘鶏を残忍な遊びを排除したり、ボクシングをルール化したり、労働の妨げになるとして禁酒運動を進めたり、安息日の遵守として日曜日の労働を行わなかったり、性に関する話題が婉曲的に表現されたりと、様々な道徳的振る舞いが日常を変えていきました。



ここまで「道徳的」と使ってきましたが、聖書に沿った暮らしのどこからどこまでが道徳的かは、解釈者によって大きな相違がありました。安息日を楽しんではいけないとした家庭では厳密な解釈で日曜日を地味に過ごしましたし、そうでないところではレジャーを楽しんだりと幅がありました。



なかでも性表現の描写を巡っては、文学や絵画などの領域で「道徳的かどうか」が問われ、表現機会や評価の質が変わりました。道徳的かどうかは個人の主観に委ねられる部分もありますが、この「どう見えるか」は時に作家の表現を奪いました。その被害を端的に受けたのが、イギリスを代表する作家、『テス』『日陰者ジュード』の作者として知られるトマス・ハーディでしょう。



ヴィクトリア朝は書籍が普及し始め、聖書はよく読まれていました。上述したように中流階級には安息日に遊ぶことを好まなかった(しにくかった)要因があり、家庭内を過ごしやすくする努力をしたり、読書や読書会が家庭内で執り行われました。子供が読む本の内容に注意を払った、最初の人びとかもしれません。




読書会の人気は、ヴィクトリア朝文学の内容に重大な影響を及ぼした。福音主義者たちは、感じ易い心が不純な考えに汚されるのではないかとしばしば神経症的に心配した。それゆえ、彼らが手にする読み物はすべて、そして婦女子を含む集団の中で音読されることになる読み物はとりわけ、言語や思想の面で、いささかなりともたしなみの良さを欠くことがあってはならなかったのである。(中略)当然のことながら、この上品振りはあらゆる言語に――印刷物ばかりではなく日常の会話にも――さらには、肉体というものを多くの人々が進んでその存在を認める以上にあらわにする絵画や彫刻、にまで及んだ。品の無さは、神に対する冒涜とほとんど同じくらい嘆かわしいことだとされたのである。
(『ヴィクトリア朝の人と思想』P.205より引用)
編集者は「道徳的かどうか」を意識して、上品ぶった言い回しを求めて検閲や削除を行うか、出版を拒否しました。ハーディは『テス』や『狂乱の群れを離れて』で単語の選び方(女性を抱えるシーンを、手押し車に乗せるように指示したなど)や、シーンの描写で、掲載雑誌の編集者の検閲を受けました。



流通も、規制の当事者でした。本がまだ高い時代には貸し本屋が本を一定数買い上げ、作家に影響力を持ちました。なかでも、貸し本屋として成功していたミューディーは福音主義的見解を持ち、非道徳的だと彼が判断する本の貸し出しを停止しました。当然、作家が生活していくには、ミューディーズは意識しなければならない存在でした。



そして、ハーディの作品『日陰者ジュード』を読んだある主教がその本を焼き払ったと公表したことによって、『イギリスの鉄道駅の書籍売店を実質上、独占していたW・H・スミス・アンド・サンという大きな勢力を誇る会社は、配布していたその本を回収した。――そのため、ハーディは小説を書くのを止めてしまったのである』(『ヴィクトリア朝の人と思想』P.210より引用)と、絶筆のきっかけのひとつとなる事件が起こりました。



なお、ヴィクトリア朝に関しては「猥褻」の検閲のみを行っており、これまで取り上げた表現規制については、法律によるものではなく自主規制でした。



東京都の条例による表現規制の一連の報道に接して、私が知っている過去の歴史に存在した表現規制の一例を、取り上げました。同じくヴィクトリア朝の絵画におけるヌード表現については、「非実在青少年」規制問題に関する余談にてまとめられている方がおりますので、ご参考まで。



私自身は条例に曖昧さを感じており、過剰な自主規制と、判断が運用者で異なる可能性が高い点で運用者にも負担が多いと思うので反対です。東京都が目指しているのは、ヴィクトリア朝のような「道徳的な社会」ではないでしょうし、道徳的といわれた時代でも売春が盛んに行われていました。これには貧困が売春を強いていた部分もあり、環境要因も見落とせない視点です。同様に創作物の表現規制のみで、東京都が期待する健全な環境が訪れるようには思えません。



また、1990年代の有害コミック運動はそれからどうなったのかで言及されるように、過去に同様のアクションをした結果として今があるわけで、当時の振り返りや、他の方法を考えていくのが良いのかなとも思います。



今回、ヴィクトリア朝を軸に書きましたが、産業革命以降の繁栄を謳歌したヴィクトリア朝は最初に様々な問題を体験した社会とも言え、現代日本で起こっている様々な事象を異なる視点で見る、相対化する視点に富んでいると思うからです。



しかし、この相対化自体はヴィクトリア朝に限ったものではありません。過去の何かを知っている方には、特に専門研究者・教育者の方から見た表現規制の歴史や影響(日本の1990年代でも、戦時中でも、明治時代でも、海外でも)などについての情報や発言など、視点の多様化(条例への賛成・不賛成は別としても)を期待しています。


ヴィクトリア朝の照らし方いろいろ

大英帝国のもうひとつの側面が描かれる。アラン・ムーア『フロム・ヘル』、このエントリを読んで認識の差が非常に面白いと思いました。(作品『フロム・ヘル』の評価は参照先URLにてどうぞ。自分はジョニー・デップ主演の映画版がトラウマになって読んでいませんが、その原作コミックスは素晴らしい作品と高い評価を受けています)



「もうひとつの」という表現を自分は「メインストリームに対して、他の視点がある」との意味で使っていますが、自分にとっての「メインストリームであるヴィクトリア朝大英帝国認識」は『フロム・ヘル』に登場するような、階級社会・労働者階級の貧しさが目立つ世界観です。


シャーロック・ホームズ』や『切り裂きジャック』『吸血鬼ドラキュラ』『フランケンシュタイン』(追記ヴィクトリア朝以前でした)といった犯罪やゴシックな題材の小説や、マルクスエンゲルスの描きだす労働者の生活、都市のスラム化、そして貧困や公害や売春といった社会問題など史実的な関心の面でも「ヴィクトリア朝の労働者は貧困な境遇にあった」という物の見方や、都市のスラムや工場労働者にまつわるエピソードは数多くあります。



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鍵穴から覗いたロンドン (ちくま文庫)

鍵穴から覗いたロンドン (ちくま文庫)



路地裏の大英帝国―イギリス都市生活史 (平凡社ライブラリー)

路地裏の大英帝国―イギリス都市生活史 (平凡社ライブラリー)

 
どん底の人びと―ロンドン1902 (岩波文庫)

どん底の人びと―ロンドン1902 (岩波文庫)



売春とヴィクトリア朝社会―女性、階級、国家 (SUPモダン・クラシックス叢書)

売春とヴィクトリア朝社会―女性、階級、国家 (SUPモダン・クラシックス叢書)

 
ヴィクトリア朝ロンドンの下層社会 (MINERVA西洋史ライブラリー)

ヴィクトリア朝ロンドンの下層社会 (MINERVA西洋史ライブラリー)





今、コミックスで『フロム・ヘル』に近い雰囲気を求めているのが、和月伸宏先生の『エンバーミング』や、少し前では藤田和日朗先生の『黒歴史館スプリンガルド』でしょうか。(他にも多くあると思いますが)



時代によってもヴィクトリア朝の評価が異なりました。たとえば第一次世界大戦を招いたのはヴィクトリア朝だったと反発があったり、ヴィクトリア朝という言葉自体が古臭さや偽善的、堅苦しさを指し、ポジティブなイメージを持つものではない時期もありました。現在はイギリスで数多く映像化作品が登場して、華やかな雰囲気や「古き良き時代」的な映像作品が増えていますが、人によって照らし方が違うからこそ、面白いです。



森薫先生や船戸明里先生によって『フロム・ヘル』的(というより暗くて悲惨な労働者の実情)ではないヴィクトリア朝が目立つかもしれませんが、自分が研究を始めたころは労働者階級や、好奇の念を満たすような関連書籍が多いものでした。その認識なので、これまでブログで「もうひとつの」という言い方をした場合、たいていは森薫先生的な世界を指しました。



これがもうひとつのヴィクトリア朝(2009/03/07)

アニメ『エマ』の感想の中の見出し/早朝の倫敦〜もうひとつの倫敦(2005/05/15)



『エマ』や『Under the Rose』は上流階級を描いていますが、どちらも上流階級だけではなく、家事使用人や領地の農業労働者など、労働者階級の人の視点の両方を描いている、これがそれぞれの作品の描きだす世界の魅力の一つだと思います。それもあまり陰惨にならず描いている点で(『Under the Rose』は際どいところを残していますが)、「目立たないけれど、実在した」世界を伝えるものです。



自分がメイドの研究を始めた当初、どちらかというと前者の情報に多く接していたので、実在した使用人の声や記録を見ていると、「それだけではない」ことを学びました。また、たとえば同時代の作家フローラ・トンプソンが描いた『ラークライズ』は英国の田園風景を描いた自伝的作品ですが、貧しいはずの労働者階級の生活は決して「悲惨」には見えません。都市と田園、地域の差がありますし、どちらがよりリアルであるかというより、併存していたものでしょう。



ラークライズ

ラークライズ



図説 ヴィクトリア時代 イギリスの田園生活誌

図説 ヴィクトリア時代 イギリスの田園生活誌



エマヴィクトリアンガイド (Beam comix)

エマヴィクトリアンガイド (Beam comix)





文学で描かれる世界への憧れもあってか、映像化される作品の多くは「上流階級」が多くなっていますが、ヴィクトリア朝の作家トマス・ハーディの『テス』はあっけなく貧困に陥る当時の農村労働者の実像に近い姿を描き、『狂乱の群れを離れて』では羊が病で死んだので経営者から労働者になった人を登場させました。ディケンズの『オリバー・ツイスト』で主人公は貧民街の窃盗団の一味に加担させられたように、また『大いなる遺産』の主人公ピップが鍛冶屋の義兄ジョーの家で徒弟奉公をする職人であるように、労働者階級の生活やその境遇は同時代の作家が扱うテーマであり、文学だからといって上流階級だけを扱っていたわけでもありません。(もちろん、当時の作家が対象とした読者は本を買える・貸本屋で利用できる層であり、こうしたテーマがどれぐらいの層に届いたかは不明です)



話が広がりましたが、以下に映像主体の作品を並べておきます。両者の数が違うのは単純に今、適当なものを思いつかないからです。


ゴシック・退廃・貧困の悲惨さ・淡々とした実像に近いもの

映画『フロム・ヘル』(コミックスを原作としたもの)

[映画/映像/ドラマ]『Dorian Gray』(『ドリアン・グレイの肖像』)

『荊の城』(犯罪小説・侍女とお嬢様)

『North & SOUTH』ヴィクトリア朝の工場労働者を扱った作品)



オリバー・ツイスト [DVD]

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明るい方向性

アーネスト式プロポーズ(『真面目が肝要』)



秘密の花園 [DVD]

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