何かを吸収して、伝えることの難しさ
しばらく『エマ』のアニメ版『英國戀物語エマ』第二幕の感想を書いていません。一番「書けない」と思ったのは、同じ世界を見ても、感じることは違うんだなぁという事実です。当たり前のことですが、あまりにも認識の差が、大きいのです。
久我は「使用人を描ききれていない」と、第二話「月光」の感想で書きました。使用人たちのエピソードで、最も面白い題材であり、森薫先生の筆も走っていた「使用人だけのパーティ」。使用人を描くならば、これを外すはずがありません。第二幕で最も期待したシーンでした。
しかし、アニメではあっさり終わってしまい、華やかさも、使用人がそれをどれだけ楽しみにしていたかも、伝わらなかったのが、寂しかったです。
が、「今回は恋愛がメイン(使用人を描くのは今回の目的ではない)」と監督のインタビューを教わり、また第二幕だけで「7巻までを完結させる」というありえないぐらいのスピードで進むことを知り、「じゃぁ、しょうがないか」と諦めていたのですが、ある記事を読んで、「それはないだろう」と、思ったのです。
それが冒頭の「認識の差」です。
脚本家のインタビュー
長い前ふりですが、たまたま『月刊コミックビーム』にて、脚本家の方のインタビューを読みました。実際にイギリスに取材をして、屋敷の中を歩いていて、その上で、『エマ』を読んで、使用人を学んでいて、あのアニメを作っています。
『MANOR HOUSE』を見て、『ヴィクトリアン・サーヴァント』も読んで、森薫先生が言うところの、「メイドマンガ」を描ける条件は整い、また日本ではかなりのレベルの資料・体験をしたでしょう。久我はその世界が好きですし、森薫先生が様々に勉強した結果に出力するそれを、好んでいました。
以前にヴィクトリア朝メイドを語ること・『エマ』に思うことと題して、『エマ』の原作、小説、アニメへの感想を書きましたが、結局、「その人しか見えない世界」が、『エマ』にはありました。
インタビューの中で、脚本家の方は「使用人の生活風景を描く」(描いた)と応えていました。
「そのつもりで作っていたの?」
久我は驚きました。
森薫先生と同じ視点ならばそれを言う資格はありますが、言葉とは裏腹に、久我には使用人を描いているように、伝わりませんでした。
確かに、使用人の仕事の描写、生活する風景は映像として増えています。しかし、それ以上ではありません。だから、あの記事を読んで、驚きました。
『恋愛を優先して、使用人を描くのを減らしたはずでは?』
『原作と同様に、使用人を描いているつもりなの?』
風景は描けても、『エマ』にあった価値観や質感、温度は伝え切れなかったと言うのが感想です。メルダース家の魅力的な使用人は、その輝きを失い、数は多くても、背景でしかありません。
時間的制約(第一幕の3倍のスピードで進む)があったとはいえ、劇的な展開を描かんがために、原作では大切にされていた小さな風景が、疎かにされたことは、残念でなりません。
『エマ』には、メイドブームに一石を投じ、あの時代を生きたメイドたちの風景を、段々と伝えていくようになった、新しい価値観に光を当てた功績がありました。
その功績とは、「ゴシックでダークで退廃的な雰囲気がするヴィクトリア朝に対して、光が当たり、人が暮らしている息吹が伝わる日常生活を描いた」ことです。使用人がいて、貴族がいて、彼らが暮らしている風景を、彼らが見ているロンドンの街並みを。
勉強しなければわからない、使用人の目で見た生活の風景を。
今回のアニメでは、普遍的な恋物語をメインの題材にした結果、原作のオリジナリティは損なわれました。原作を離れた結果、原作の作り出した「価値」を損ねる描き方になりました。
あのインタビューを読まなければこういう文章は書かなかったのですが、本当に、使用人は描かれていたのでしょうか? あれで描けていると思われたら釈然としませんし、原作とは別物だと言うことを伝えておくために、それを検証します。
使用人の生活風景を研究する立場として原作とアニメの「使用人の描き方」の差を、明確にしたいと思います。
以下、今までのような「描写の解説」ではなく、作品全体への感想です。まだ見ていない方はネタばれもあります。またアニメ版に対して、論理的に批判を試みています。対象ではないと思われる方は、ここから先は読まないようにお願いいたします。