ヴィクトリア朝と屋敷とメイドさん

家事使用人研究者の久我真樹のブログです。主に英国ヴィクトリア朝の屋敷と、そこで働くメイドや執事などを紹介します。

『F-Files 図解 メイド』

図解 メイド (F-Files)

図解 メイド (F-Files)

アキバblogさんの関連リンクで、過去に書いた「図解メイド」を考える、をご紹介いただきましたが、今回は同書の感想を書きます。該当記事内では秋葉原での様々な書店での入荷具合(山積み)が紹介されていますが、うちの近くの普通の本屋でも平積されていました。



久我は、「ヴィクトリア朝メイド」の資料本の同人誌を作る立場にあります。今回、『図解メイド』の巻末に出ていた参考文献リストに、久我が2001年より刊行している同人誌『ヴィクトリア朝の暮らし』をご紹介いただきました。



誰かがまいて、自分もそれを育てる一人として関わった「ヴィクトリア朝メイド」という世界が、さらにより多くの人に伝わることを願っているので、それを伝えるのにふさわしい『図説メイド』は「読んだ方がいい」と、オススメします。



ということで、あくまでも作り手ベースとして、読んだ感想などを記していきます。


商業におけるヴィクトリア朝・メイド解説本の終焉

『ヴィクトリアンガイド』×『ヴィクトリアン・サーヴァント』×わかりやすさ



これが、図解メイドのキーワードかもしれません。



懸念したイラストも、きちんと自分たちの出来ることを理解して、「絵で萌えたい人」向け(お金のかかるイラストレーター起用)ではなく、「簡単に分かるように・伝わるように」するための図解として位置づけました。



徹底したプロ意識です。



正直なところ、かなり高いレベルでのプレゼンテーション能力、そして、「読者に分かって欲しい・伝えたい」という高いホスピタリティを感じました。表紙の、ある意味での地味さは、こうした部分を巧く伝えたように感じます、結果論ですが。



『エマ ヴィクトリアンガイド』は商業と言うジャンルで初めて本格的にメイドの知識を伝えました。それは『エマ』という作品を通じて、広くあの時代の使用人やカントリーハウスの魅力を伝えようとするものでした。



『ヴィクトリアン・サーヴァント』は、イギリスの本格的な研究書にして導入書、それこそ英書も含めてすべての本の「参考文献」ともいえる本で、その登場によって、これ以上の資料本を作る余地は、相当、限られていたはずでした。



しかし、『図解メイド』は、あえてこの狭き門を叩き、新しい扉を開きました。この本は、上の2つとはまた違った視点、「徹底したユーザ志向」で作られているのです。


徹底したわかりやすさ

資料本が好きな方は感じたかもしれませんが、この本はわかりやすさ・共通したルールを導入しています。1ページ〜2ページに込められる情報、仕事の内容などの図式化、特にこの図式化はレベルが高く、ぱっとみてわかりやすいです。



資料本の同人誌を作る立場からすると、知っていることすべてを伝えたくなったり、書きたくなります。それをこの本は、あくまでも必要最小限に、くどくならず、読者に最低限の情報を提示し、その上で、キーワードが印象に残るように設計されている。それは、読者を混乱させません。



『エマ ヴィクトリアンガイド』がおいしいディナーを食べさせてくれるキッチンメイド、給仕する最高の執事やパーラーメイドといった「表舞台」を想起させるならば、『図解メイド』は部屋の隅々まで綺麗に掃除してくれるハウスメイド、或いはゲストがメイドに呼びかけるまでも無く、先んじてすべての問題が解決しているようなサービスが行き届いたカントリーハウスの「裏方」を、思わせます。



というわけのわかったようなわからないような表現かもしれませんが、前者は見た目・味と言った「積極的な美しさ」を堪能させ、後者は「清潔感・居心地のよさ」といった「消極的な満足感」を満たしてくれる、まぁ、そんな言葉になるでしょう。


商業・伝えることによる相違

読んでいて感じたのは、「久我には出来ない」ということです。知識や愛情では負けないプライドは当然ありますが、ここまで読者の方に分かりやすく伝えようとする気持ち、そしてそれを実現できてしまうことに、敬意を抱きます。



ただその反面、商業に出る場合で重視される「わかりやすさ」への違和感が、自分を同人誌に向かわせた理由、であるのかもしれないと、思いました。



久我が同人誌を作るスタンスは、あくまでも「同人誌は入り口」であって、「この本を読んだ人が、関心を持てるように、その先の広がりを示す」点に、重点を置きました。それが、「引用した参考文献の、文中での明示」です。



『エマ ヴィクトリアンガイド』にせよ、『図解メイド』にせよ、他の資料本にせよ、だいたいにおいて参考文献の見当がつきます。なぜならば、「日本人が入手できる、メイドに関する和書は限られている、それだけに、関心を持てば、資料本の筆者と同じだけの情報を得ることが出来る」からです。



それが良いか悪いかではなく、なぜこだわる場所になるのかは、個人的な体験によります。久我が和書でしかメイドの知識を知らなかった頃、『路地裏の大英帝国』を読みました。



それから、しばらくして、英書『RISE AND FALL OF THE VICTORIAN SERVANT』(去年『ヴィクトリアン・サーヴァント』として翻訳されました)を読み、衝撃を受けました。『路地裏の大英帝国』の使用人箇所、その多くは、同書から翻訳した要約レベルに過ぎなかったのです。興味のある方は一度、比較してみてください。



その時のショックは大きく、騙された気がしました。



「それって、ただの長文での引用じゃん。なんで、自分の言葉・知識のように書けるの?」と。



巻末に参考文献が紹介されていたとしても、「参考と言うより、引用」という大きな使い方、他の人間が書いている知識を、自分だけの言葉として引用元を明示せずに書くことに、抵抗を覚えました。また、もしも関心のある人間が、その知識を深彫りしたいと思ったとき、どこに向かえば良いのか?



しかし、自分で同人誌を作っていて、この方法論に対抗していても、限界は感じます。引用の明示は冗長な文章になりますし、果たしてこの原典を読む読者は何人いるのだろう、それこそ、自己満足ではないのか、と。



それは、作り方・誰を読者にするかの相違です。


読者の求める終着点としての「答え」

『路地裏の大英帝国』も、『ヴィクトリアンガイド』も『図解メイド』も、文中における言葉の多くで、「その原典とする知識・文章がどこから引用されたか」明示していません。それは、「明示することを読者が求めていない」からです。



読者にとって、その本は「始まりではなく、答えのある終わり」です。それを読めば、答えがある、そこにある安心感。参考文献の引用はそのほとんどが学術的なものとなり、簡単に読もうとして、読めるものではありません。



そこが、多くの読者を相手にする商業に乗るのか、乗らないかの差だと思います。読者に伝わらなければ、伝えたいことが読者にわかりやすい形で届かなければ、意味がありません。どれだけわかりやすさを心掛けても足りないのです。



商業において、数字は絶対に近しいものです。その数字を出すためにはより多くの人に読まれなければならない、特に芸術・小説などの「人の心を動かす」系統ではない、「資料本」ならば、余計に「わかりやすく」なければなりません。



その点において、『図解メイド』は、「読者の求める答え」があるでしょう。そして、それを見事に実現し、確実に「ヴィクトリア朝メイドの知識・魅力」を伝えてくれるのは、同誌になるでしょう。



その先に興味を抱く人は限られているかもしれませんが、その先に、当同人誌や同人の世界が広がっていると、思っていただければ、と長い文章を書きました。



図解 メイド (F-Files)

図解 メイド (F-Files)