ヴィクトリア朝と屋敷とメイドさん

家事使用人研究者の久我真樹のブログです。主に英国ヴィクトリア朝の屋敷と、そこで働くメイドや執事などを紹介します。

ある執事の肖像

というタイトルで、夏に別冊作ってみますかね? 執事の手記もだいぶ集まりましたので。



と言う話はさておき、年末に買った資料を整理していて、ある執事の人生の変遷を見るに、その人生が「成功して終わったか」「失敗して終わったか」で物の見方の違いを感じました。



尊敬する主人に出会えたり、能力を発揮する場所を得たりすることが出来た使用人の手記は基本的に明るく、使用人職へのプライドを感じるものが多いです。手記を出す、と言うこと自体がある種「成功のステータス」なのは、現代の社長や経営者が本を書きたがるのと同じです。



その一方、必ずしも成功していない人もいます。以前ご紹介したJean Rennieは、使用人としての経歴を見る限り、失敗の連続です。そして今回読んでいる本の執事は、失業や他の職種への転職を経験しています。、



主人の破滅も目の当たりにしました。貴族が財産を失い、使用人たちへ支払う賃金も無く、使用人たちはストライキを起こします。これはある種、現在の会社破綻と社員の置かれる境遇に似ています。ある日突然、職場が無くなってしまったら?



住み込みである使用人にとって、職場が無くなることは行き場を失うことをも意味します。雇用の流動性が高かった時代で、使用人職が職場としては非常に多かったこともあり、選ばなければ転職先は見つかりやすかったかもしれませんが、ちょっとこの辺りはまだ詳しい声を拾っていません。



以前、雑感として「百年前の英国と現代日本の近似」と言うのを書きましたが、最近はそういう経験をした使用人の声も、意識するようになりました。



人間は体験から物を言う、自分のことを話すものですが、「刊行されている手記」に依存しすぎると、「成功談ばかりになってしまう」(=成功しなければ手記を書かない)ので、そうではない言葉をどのように集めていくかが、今後の課題です。目処はついていますが、どうアクセスするか。



成功した使用人にとって主人たちは家族に等しいです。ならば、その家族が破滅してしまったら? 使用人は使用人に過ぎず、力になることも出来ません。



中には給与を受け取らず、仕え続けた使用人もいますが、使用人の立場なればこそ「財産を失った主人たちを取り巻く環境の変化」を間近で見ることもあり、財産の有無で態度を変える人々にも出会ったことでしょう。



なぜ、その執事がシニカルに成らざるを得なかったか、その想いに至ったのか、そしてその想いに至らなかった執事がいたのはなぜか? その気持ちの源泉を探すことは、歴史研究というよりも、人間観察に近いですね。