ヴィクトリア朝と屋敷とメイドさん

家事使用人研究者の久我真樹のブログです。主に英国ヴィクトリア朝の屋敷と、そこで働くメイドや執事などを紹介します。

メイドブームを整理していて気付いたこと

前にも少し触れましたが、世の中で伝わる「メイド・イメージ」は限定的で、多様性を伝えるのが難しく思えましたので、整理することにしました。私が個人的に存じ上げる詳しい方々や雑誌、売り上げデータ、コンテンツの発売リストなどの情報から、なるべく「主観」を排して、その当時存在したトレンドを表現の観点で見ていく試みは、『英国メイドの世界』で試みたことと構造的には同一です。



[特集]仮説『日本のメイドブームの可視化(第1〜5期)』

[特集]第1期メイドブーム「日本のメイドさん」確立へ(1990年代)(2011/01/29)



昨年8月末からは補足・メイドブームの断続性と連続性を考える(2010/09/11)とテキストを書きましたが、前回の「考察」から踏み込んだレベルにできたとは思います。



だいたい4か月半かかりましたが、疑問に思うところを詰め、直感だったところを他の方に学びながら、前回から大きく変わった情報に出来たと思います。



このようにメイドブームを整理していて、「メイドが好き」といっても「和菓子が好き」なのと「洋菓子が好き」なぐらいに内部ではカテゴライズの違いがあって、ただ「メイド服」という存在が強すぎてその違いがなかなか自分には見えなかった、というのを自覚しました。



私は「メイド喫茶に行く人はメイドの創作表現が好きな人」だ思いつつ、同時に「メイドの創作表現が好きな人はメイド喫茶に行くとは限らない」ことも知っていました。しかし「メイド喫茶に行く人が、メイドの創作表現が好きとは限らない」ことに、それほど気づいていませんでした。



私の同人活動で出会う人はそのほとんどが「メイドの創作表現が好き」な方でセグメントされており、「喫茶にも行っている人がいる」という認識があるぐらいでした。私は「メイド喫茶にしか行かない方々」の情報に接しませんでしたし、ネットで主体的に得ようとしませんでした。



そんな私が、Twitterでのフォローやシャッツキステとのイベントを通じ、「メイド喫茶が好き」な人々に接する機会を得ました。シャッツキステのイベントでは「シャッツキステが好き」な方々に出会いました。ネットでも、少し意識するようになりました。すると、メイドの歴史や創作されたメイド(『まほろまてぃっく』など)と関係なく、「メイド喫茶が好き」な方も多いのだなぁとの印象を受けました。



私は「メイド」にまつわる多様性を自覚しつつ、「自分の目で見た世界」に捕らわれて、今まで接していなかった世界の在り方を十分に理解できていませんでした。その点で、メイドブームの考察はこうした体験を理解し、まとめ直す意味でもいい刺激になりました。



「メイド服」という見ている対象はひとつであっても、その実態は大きく異なっています。『動物化するポストモダン』ではキャラクター消費として「メイド服」の属性化を取り上げています。その当時は「創作表現におけるメイドさん」が「メイド服」という属性で象徴されたはずですが、メイド喫茶ブームによって2011年の今は「メイド服」でイメージされる意味が異なっているでしょう。その10年の変化は、面白いものです。



私は、「メイドの違い」を強調するというより、楽しみ方や入口の違いが多ければ多いほど、裾野は広く、面白さが広がると思います。「読書が好き」といって読む本が違っても、「本が好き」な人には仲間意識があるように。私が作った『英国メイドの世界』は、その繋がりを強め、境界をまたいでいくことの一助になればとも思います。ウェブを見ていると、メイド喫茶で働く方やメイド服を着てサービスを行う方の手に届いているようでもあります。



歴史的なメイドや現代の海外にいるメイドを学べば学ぶほど、日本のメイドの描かれ方が私には興味深く、貴重に思えます。その貴重さを、他と比較することで伝えられないかなぁと、これは長期的視点で思っています。



同じ「メイド服」、同じ「メイドさん」という言葉でも、聞き手や語り手によって受け止め方が異なるのを自覚しつつ、そのあたりの話はまた続きの分析で可視化するつもりです。いつになるか分かりませんが、せめて2月中には。