ヴィクトリア朝と屋敷とメイドさん

家事使用人研究者の久我真樹のブログです。主に英国ヴィクトリア朝の屋敷と、そこで働くメイドや執事などを紹介します。

日本における「メイド文化」を当事者として語る時期

日本ヴィクトリア朝文化研究学会より、毎年5月に発行するニュースレターに「日本でなぜメイドが受容されたのか」についての寄稿の依頼があり、お引き受けしました。このテーマ自体、この1年、強く自覚するものではありましたので、掲載されるされないは別として、言葉にしようと思っていました。



きっかけは、自分が「商業で出版されたものへの対抗」として、同人誌の商業化を目指したのと似ていますが、「当事者でない人々だけが語る状況への違和感」によるものが大きいです。



日本ヴィクトリア朝文化研究学会のシンポジウムで社会学者の方が日本のメイド文化について若干ふれましたが、これも外側の視点、それも下記の文脈すらないものでした。そういう場に居合わせると、「他者に語られる違和感」が残ります。



メイドブームというものが何なのかという話はさておき、少なくとも、ウェブを含めてメイド文化を語る言葉は、客観的でありすぎる、当事者のものではないものや、視点の抜け落ちが感じられるのです。



メガストア』に掲載されていた、メイド文化とウェイトレス文化のお話

http://d.hatena.ne.jp/y_arim/20090604/1244142167



wiki:メイド

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%89



ここで描かれるものはよくまとまっているので、これ以上のものは書けませんし、自分が書ける性質のものでもないと思います。外からの視点は絶対に必要です。しかし、当事者の声が欠けているように感じます。少なくとも、同人におけるブーム的なもの、そして「個人が、なぜそれを好きになったのか」への視点が、無いように思えるのです。(wikiについては筆者不明につきブームの当事者かもしれません)



どちらのURLで語られる言葉の中にも、「自分はいない」です。それは正しい正しくないではなく、観測範囲や、伝える相手が異なるからです。



自分自身の観測範囲は狭く、視点も限定的ですが、これらとは違った形で、受容の方向性を、当事者としての視点を軸に作ります。調べ方や方法論はこれから考えますが、自分が当事者として見てきたものを残そうとも思っていますし、久我以外にも大勢の当事者がいらっしゃることは伝えたいです。



こういうことが専門ではないので見当はずれかもしれませんが、イギリスで実際に起こったメイドブーム(1970年のドラマ『Upstairs Downstairs』の影響)は、研究を盛んにしましたし、「実際はそうではない」と、メイド経験者たちが声を上げて、手記を出版する契機にもなりました。ブームがリアルタイム性を帯びている時期には、まだその声が集まります



ブームという言葉を何度か使いましたが、「ブームであるかどうか」の観測視点のひとつは「非専門家・それまでまったくそのジャンルに縁が無かった人の本が出て、売れる」こともあると思います。2005〜2006年が、自分にとってはその認識に当たる本が出ています。



「人気がある/ブームっぽい=市場がある/読者がいる」→「ニーズを満たす/売れる」→「今まで興味が無かった層にも拡散していく」→やがて収束(霧散)か普遍化、という流れは、今の歴史ブーム?でも、似ているのではないでしょうか。確か新聞やメディアの表記が「メード」だったはずが、いつのまにか「メイド」が増えているのも影響のひとつでしょうか。



実際に扱いきれるのか分かりませんが、まずは自分の当事者としての立場と見てきたものを出すことから、他の人の視点を引き出せていけたらと思います。



仰々しく書きましたが、好きな人が好きなことを語る言葉を、もっと読みたいのかもしれません。それが今の自分にはあまり見えていないので、集めたいのかもしれません。