ヴィクトリア朝と屋敷とメイドさん

家事使用人研究者の久我真樹のブログです。主に英国ヴィクトリア朝の屋敷と、そこで働くメイドや執事などを紹介します。

『半身』

半身 (創元推理文庫)

サラ・ウォーターズの『半身』は昨日も書きましたが、予想に反して、面白かったです。沈鬱な描写で進むのかと思いきや、日記で進む形式で内面・事実・生活の描写が多く、さらっと読めます。「心霊」が関わる点で「事実? 『語り手』の錯覚?」(京極夏彦的アプローチ)という疑問を抱かせながら話に引き込みます。それだけではなく当時の結婚し損ねた女性の家庭での立場(老嬢)、未亡人となった母との葛藤や心理が巧みに描かれています。



主人公の女性マーガレットはヴィクトリア朝期の裕福な上流階級の女性で、ミルバンク監獄へ慰問に訪れます。そこで彼女は「霊媒師」として名前が知られたものの、傷害事件を起こした女性シライナ・ドーズに出会います。物語は、マーガレットとシライナ・ドーズの手記を織り交ぜ、現在が進み、過去が追いかける形になっています。



『五輪の薔薇』と同じ、「ミステリ・ヴィクトリア朝」という視点で両者を比較をしてしまいますが、その面白さは「時代背景の再現手法」の差異なのかと思います。たとえば『五輪の薔薇』は美しい数式を見るように物語は多重に錯綜し、人物描写も価値観も当時を再現していると思えます。



しかし、それだけです。そこに生きている、血が通ったキャラクターというのを、感じられませんでした。一方、この『半身』は「時代背景の再現」と共に、現代人がそこに生きる人間に共感できるだけの、「情熱」が込められています。少なくとも、こちらの登場人物の方が「人間らしい」です。(ディケンズの小説のキャラクターには基本的に感情移入できないところまで、『五輪の薔薇』が意図的に真似していたのならば、それはそれですごいのですが、この辺りは個人の趣味ですね)



ミステリの性質としての差異に過ぎず、精緻さで言えば圧倒的に『五輪の薔薇』が上ですが、人間描写や物語の運び方では、『半身』の作者の作品はまだまだ読んでみたいと思えるだけの、「余韻」が残ります。



自分は偏った立場で見ていますので、「デフォルメされすぎた使用人像」の『五輪の薔薇』よりも、主人の日記の中に風景として生活として溶け込んで描かれる『半身』の使用人像の方が好きです。主人公であるマーガレットの繊細さは、「ヴィクトリア朝期のヴァージニア=ウルフ」みたいなテイストも感じますね。今のところ、当初毛嫌いしたほどにはひどくないどころか、引き込まれていますし、この時代が好きな人にはオススメできます。(好き嫌いもありそうですし、値段も結構するので、図書館でいいかもしれません)



突き抜けるような爽やかな読後感は無いですが、個人的には好きですし、納得できるレベル(騙されたぁ!と喜べる)でのエンディングでした。冒頭ではあまりそうでもなかったのですが、次第にマーガレットに感情移入していける構成をしていて、そこからは一気に読ませます。いろいろと考えさせる、リアルなラストシーンです。



ヴィクトリア朝の使用人、彼ら無しになった主人たちは生きていけないのではないかと言う、まさしくオスカー・ワイルドジョージ・オーウェルも語った、「支配する者が支配されている」、逆説的な関係性があり、使用人小説としてもなかなかいい話です。



そして京極夏彦の新作を読み始めましたが、案の定、出てきました(注:お化けではありません。メイドさんです)。やはりここは本格的にサイト内に記事でも作りますか。文章を読む限り、京極氏は大好きらしいですから。今回も笑いながら読めました。文体や情報の出し方を変えるだけで、怖さの質を変えられるのは本当にすごいです。