ヴィクトリア朝と屋敷とメイドさん

家事使用人研究者の久我真樹のブログです。主に英国ヴィクトリア朝の屋敷と、そこで働くメイドや執事などを紹介します。

『イギリス近代史講義』〜現代を照らす一冊

私が英国史を学ぶ中で、最も影響を受けたのは川北稔先生です。初めて手にした川北先生の著作は『産業革命と民衆』で、「都市生活者の視点」「過去の人々の暮らし・日常生活」を非常に大事にされている印象を受けました。年表で覚える歴史というより、産業革命でどのような事象が生じ、どのように個人の生活が変わっていったのかを理解しやすかったです。



今年は『私と西洋史研究 ―歴史家の役割』(ASIN:442220288X)を記され、自伝的に自らの物の見方や立脚する立場が成立していく過程、産業革命・近代化が進む英国をどのように捉えるか、そして日本においてその研究がどのような意味を持つかを書かれていました。今回の『イギリス近代史講義』はより近代史の観点で初心者に分かりやすく概要を伝える構成となっています。イギリスの産業革命にテーマを限定しているというより、私たちが今を生きる産業社会(狩猟社会→農耕社会→商工業を中心とした社会)を見直す上で、本書は欠かせない視点を持っており、世界史に関心のない方が読んでも知的に楽しめる一冊です。



イギリス近代史講義 (講談社現代新書)

イギリス近代史講義 (講談社現代新書)





年末に発売が決定した話題の書『まおゆう』を読む際にも同書は役立つと思います。ネットで読んだ際は魔王と勇者の物語から受け取ったもの(2010/05/17)と感想を書き、最近は『まおゆう』刊行を記念して、振り返る「近代」関連の書籍(2010/12/04)と、近代関連の書籍を書きました。


問題設定:「今、歴史を学ぶ意味」への問いかけ

同書で最も特筆すべきは、「歴史家が、同時代にどのような影響を与え得るか」かもしれません。プロローグでは10ページに渡って、今の日本で世界史の受験者数の減少(世界史への受験を通じた関心の低迷)が、「世界史への関心の低下」なのか「学ぶ若者が減少しているのか」など、現状への懸念を示されています。



その上で、歴史家自体の存在意義にも触れ、「危機に立たされる歴史学」と現状を分析されています。「歴史のプロが社会で必要とされる問題提起をしていない」、そして歴史学への関心の低下はこうした問題提起の欠如にあるのではないかと。日本の経済発展期は英国の産業革命が一種のモデルとなりましたが、その点についても、同時期に渡英していた川北先生はイギリスの経済低迷を目の当たりにし、むしろ、経済発展モデルは「日本だろう」といわれたとのことです。そして、英国で「イギリス衰退論」が言われる中、日本人の歴史家は英国を経済発展のモデルとする考え方からも逃れられなかったと。



実際には本書を読んでいただくのをオススメしますが、川北先生がこのような発言をされる背景として、小泉改革で強く実感させられた「グローバリゼーション」と、経済発展の帰結としての「資源枯渇・環境破壊に直面する生活」をテーマをどう見ていく視点として、英国近代史を照らす方向にて、講義は進んでいきます。


成長パラノイア

川北先生の指摘で、最も現代人に刺さるのは、近代に始まるライフスタイルによって当たり前となった「昨日よりも、もっと良い暮らし」を求める「成長パラノイア」の観点でしょう。給与が上がって良い暮らしをしたい、という価値観に私は染まっていますし、お金を稼ぐために時間と健康を損なう事態も起こっています。



そして個人の消費によって社会的地位が決定される社会が成立し、より豊かな暮らし、「上」を目指す心理も生まれました。経済力、つまりは財産や年収で人から評価されてしまう、それが近代イギリスが今の私たちに残した遺産のひとつだと私は思います。英国の階級社会は「身分」といわれていますが、実質的には年収・収入に紐づいていますし、教育の機会も親の経済力に大きく依存します。



(川北先生が消費の変容を描き出したのが下記書籍で、とても面白いのでオススメします)







労働に対する価値観も変化します。かつては、たとえば日給が2倍になったら翌日は休んで働かない(生活水準の維持)という考え方が多かったのが、昨日よりも豊かな暮らしを求める性向が強まっていくと(少しでも生活水準を上げる・成長への欲求)、給料を上げるためにますます働く価値観に移行していくと、川北先生は指摘します。



私が主に見ている19世紀の英国で、面白い価値観は、「収入に見合った暮らし」をすることへの熱意です。家事使用人の雇用も、中流階級の証となり。雇っていないと「下の階級」に思われました。当時の家事使用人雇用マニュアルには面白い記述も残っていて、私の世代では(誰が言い出したのかは知りませんが)「家賃は月収の1/3程度」との言葉があるのと同様に、19世紀初頭に登場した使用人マニュアル『THE COMPLETE SERVANT』は、年収によって雇うべき使用人の数や、手取り年収に占める「家計費」「使用人」「衣装代」「家賃」「貯金」の5項目に分け、支出の上限値(或いは好ましい配分)を提示しました。


経済成長の限界

その上で、国の経済は発展しなければならないのか、という問いかけも川北先生は行います。そもそも近代には、豊かになるために植民地を支配し、資源を収奪し、また自国の経済発展を追及して資源を囲い込んで国を強化しようとした流れの中で大戦も生じました。さらに、今時点では世界の人口全員が、豊かな暮らしを享受することができるほど、資源は残っていないとされています。私が最近読んでいる下記の本(私が買ったのはKindle版ですが)では、「中国人全員が豊かになるほど、地球には資源が残っていない」とも記されています。



When a Billion Chinese Jump: How China Will Save Mankind - or Destroy it

When a Billion Chinese Jump: How China Will Save Mankind - or Destroy it





しかし、経済発展を中国は続けているわけで、国民の平均的所得も上がっていくでしょう。そうなると、現在繁栄を謳歌している先進国は資源の奪い合いに巻き込まれていきますし(既に巻き込まれています)、「自分たちが豊かでいたいから、他の国は貧しいままで、資源を使うな」ということも出来ないでしょう。成長はどこかで歯止めをかけなければならなくなる=生活水準を落とさなければならなくなる点も、川北先生の問題意識に繋がっていくと思います。


終わりに

私の感想はここまでとしますが、メイドを学ぶ立場としての見解を、川北先生の問題提起に応える形で「メイドが照らし得るグローバリゼーションと経済発展」と題して、近日中に書く予定です。英国メイドを追及していくと、どうしても現代に行き当たってしまうのです。



意外と著名な方がこの本の感想を書いているのも、同書で扱うテーマが同時代的なればこそでしょう。新書で読みやすいので、今の社会を振り返る一冊として、強く推薦します。