ヴィクトリア朝と屋敷とメイドさん

家事使用人研究者の久我真樹のブログです。主に英国ヴィクトリア朝の屋敷と、そこで働くメイドや執事などを紹介します。

書店で本を売る現状認識と著者が提案可能なアクション

本コラムは出版した本に1日でも長く生きてもらうため、著者に出来ることの第3回目です。本を出した著者が何を出来るのかを考えていくテキストです。



第1回目:出版した本に1日でも長く生きてもらうため、著者に出来ること(2011/01/16)

第2回目:本を書店で初めて売る体験から気づいたこと(2011/01/26)



初見の方は、上記リンクを先にお読みください。


目次

  • 1.はじめに〜前回の続きも兼ねて
  • 2.書店で本を売る感覚
    • 2-1.長期・書店の数の多さ
    • 2-2.返本率
  • 3.書店が一冊の本にかけられるコスト
  • 4.書店の方に提案可能な「私」の取り組み
    • 4-1.POPは店員の方々によることを前提
    • 4-2.書籍フェア・棚つくりへの著者リソース利用の提案
    • 4-3.POPと書籍フェアの実例
  • 5.まとめ
    • 5-1.文脈を作る・関連性を描く
    • 5-2.情報を伝える「ウェブ」の窓口を著者が持つ


1.はじめに〜前回の続きも兼ねて

これからは書店で本を売ることを前提に話を進めます。



前回、はてぶでご指摘いただいたように、いわゆるAIDMA(Attention、Interest、Desire、Memory、Action)に基づく着想は重なります。著者の知名度が高ければ本も売れる、書店の方も喜ぶというのは理想ですが、現実的になかなかそうもいきません。「本が面白ければ評判になって売れる」というのも真理ですが、面白いかどうかは見つけてもらい、読まれなければわかりません。実現できていれば、きっとこのようなテキストは書いていないでしょう。つまり、これを書いている時点で、私の持つ土台は、違っています。



今、劇的に知名度が上がっても「ゼロから興味を持って買う」には高すぎますし、買っていただいても、不満足が生まれるだけに思えます。私にとって好ましいのは、「この本に、実は興味がある人たち」と出会うことです。



「ウェブで行えばいい」との見解は前提ですが、ネットと書店では動きが違うと思います。たとえば私の本、『英国メイドの世界』はネット書店のbk1全体で「3日間、本全体で1位」を記録する売り上げを出しました。一定期間はAMAZONの「歴史・地理」でも上位10位以内に入っていましたし、本全体でもベスト100以内にしばらく入り続けました。しかし、書店では、私の本がネットほど評価を受けるように感じられません。これは、ネットでの客層や買われ方、既存メディアの露出が無いことによる違いだと考えられます。



私が出版化で期待したのは、認知の機会の広さ、新しい出会いです。書店との取り組みで私の関与できる余地がほとんどなく、また私が得られる情報も不足し、推測や憶測でしか物をいえませんが、まず自分の置かれた状況と相手の立場を考え、「本を売る」ことについて整理しました。



その前に、ご参考までに、ウェブで公開されたブログ記事をまとめた『20歳を過ぎてから英語を学ぼうと決めた人たちへ』を執筆されたHAL_Jさんが公開された、「本の認知を高める方策」をご紹介します。(文脈としてはTwitterがメインの話です)




例えば、Twitterにある考えが現実に伝わる経路を一つここで紹介する。
(中略)
5. AmazonなどのNet書店で書籍が注目されてランキング入りする。
6. Net書店で注目されている事実を現実にある書店に伝えて、書店で重点的に扱ってもらえるように営業する。
7. 現実の書店でランキング入りしたら、その事実をTVや新聞といった影響力のあるMass Mediaで取り扱ってもらえるように宣伝する。

「私のTwitter社会論」 Twitterは変化を起こす最初の一歩には成りうる。けれどその力はまだまだ小さい。より引用



選びえる選択肢は書籍の領域、出版部数で異なります。6として取り上げられている「書店営業」を私は選べません。残念ながら、私の本では「書店を動かすほど、1店舗に入荷されていない」からです。



では今の段階で何ができるかといえば、はてぶで以下のようにご指摘いただいた通り、「ジャンル・カテゴリ」に興味のある人と書店で出会うようにすること、になります。




asakura-t 露出が多さよりも「ジャンル・カテゴリに興味のある人」のほうが買う可能性が高いとは思う。// ジャンルが曖昧な本はいろんな書店に置かれたほうがいいかもね(置き方も書店の傾向に合わせて変わるので)。 2011/01/26

http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/spqr/20110126/p1



著者が「知名度による本の認知」以外で取り組めることは、専門性を発揮して「書店や売り場に適した売り方の提案を行う」ことだと思います。提案を直接行うことが営業だとすれば、提案をウェブに記載して間接的に行うことが私の行えることになります。



一応、以下の情報には接しています。


本を売る現場でなにが起こっているのか!?

本を売る現場でなにが起こっているのか!?





本の現場

『石塚さん、書店営業にきました。』


2.書店で本を売る感覚

書店に「どこまで著者(あるいは営業さん)が介在できるか」という難しい問題があります。著者が「売りたい」と意気込んでも、入荷部数が少なければ、一店舗当たりの売り上げは低く、手間をかける価値がないとみなされるからです。その意味で書店さんとの関係も、こちらが一方的に提案して済むものではありません。



素人考えとして、私は「ある本屋で売れているデータや傾向を営業さんに見つけてもらい、それを反映して書店の方々に実行してもらえたら」と思いましたが、そもそも私の本は冊数が少なく、それを実行するにも「書店という対象」が多すぎ、また本が売れる速度は私が思う以上に「時間をかけるもの」という、認識の差がありました。


2-1.長期・書店の数の多さ

まず気づいたことは、書店で本が売れる速度は、これまで私が同人で体験したものと大きく異なることです。当たり前といえば当たり前ですが、同人は「同人イベント」という閉鎖環境で数時間の中で頒布を行い、書店は広い窓口で長期的に時間をかけて売るスタイル、というのでしょうか。結果が出る時間軸に大きな違いがあります。



同人イベントのピーク時には新刊と既刊で500〜600冊を1日(6時間)で頒布できました。超巨大サークルともなれば、1万冊といわれています。しかし、あくまでも「同人誌」(その瞬間に買わないと二度と出会えないかもしれない・そこでしか買えない)の話で、さらにこの規模は年2回のコミケだけなど、機会は限られています。(同人を扱う書店の話は、ここではしません)



同人イベントではサークルスペース上のディスプレイや来場される方との会話まで含めて、すべて自己完結できます。自分が努力して本の魅力を伝えたり、分かりやすように工夫をしたりすることは楽しく、一定の効果もあります。



一方、書店は規模と時間軸が違います。全国には書店が1.5万店舗あるといわれています。(朝日新聞社記事2010/01/26・消える書店、10年間で29%減 和歌山県ではほぼ半減) 仮に全店舗に1冊ずつ本が配本された場合、6ヶ月に1冊売れるだけでも1.5万冊です。1万冊売れれば成功といわれる中、「本を売る」考え方が異なります。



私の本は重版し、発売から2か月半が経過した時点で第3版まで出ましたが、売れ行きに差があり、まだ初版が残る店舗も多々あります。返本されていないのは、この3か月が経過した今も、売れるかもしれない可能性を期待されるからでしょう。



もちろん、「全国の書店に一律1冊配布」は現実的にありません。人口が多い地域の大書店とそうでない地域の書店とでは配本数に差が出ますし、私の本は全国一律に配本するほど数がありません。1店舗に占める「私の本」の冊数は少なく、必然的に売上は相当低く、手間をかけるコストに見合わない、というのが私が発売してから認識した事象です。


2-2.返本率

書店が配本に関与できる余地が少なく(返品の山と戦う書店員や、wikipedia:書店:流通経路など)、書店が望まない本が来る可能性もあります。



上記ブログでも指摘されているように「新刊と既刊」は常に面積を奪い合います。私は大学生の頃、小さな書店でバイトをしたことがありますが、返本をよくしました。返本をしないと新しい本を陳列する棚が確保できないからです。(資金繰りの観点はここでは言及しません)



私が初動で結果を出さなければならないと思った理由は、この「返本のサイクル」で早期に店頭から去ることを避けるためです。売れない本は、陳列スペースに余裕が無い限り、撤去されます。撤去されれば書店全体での強みとなる「面」が減り、出会いの機会を失います。



書店に適した売り方が「短期」ではなく「長期」ならば尚のこと、「返本されないようにする」努力や、売れることで「補充され続ける」結果を出さなければならず、そのためには「書店員の方の視界に入る」必要があると思いますが、そこではウェブでの話題性や、「売れた」という数字が鍵になるでしょう。


3.書店が一冊の本にかけられるコストとのバランス

毎日、数多くの書籍が入荷される中、どの本が売れるかは書店の方には分かりにくいでしょう。まして、刊行する出版社でさえ、よほどのブランド力がある作家で無ければ、売れる・売れないは分からないはずです。最初から分かっていれば、「増刷」は行われないのですから。



そして手間に見合う効果を出すには、相当な冊数が売れなければなりません。マーケットの規模の大きさの違いもありますが、私の本では、私が営業をかけて書店に手間をかけてもらったとして、利益を返せません。



仮に私の本が10冊入荷したとして、書店の取り分を20%だとした場合、2800円×20%×10冊=5600円の利益です。売るためにPOPを作ったり、本の配置を考えて置き換えたりする人件費を、仮に時間単価1500円として30分費やした場合、750円のコストです。10冊全部売れたとしても利益から約13%、人件費分がマイナスされます。1冊しか売れなければ赤字です。



こう考えると、書店の利益を最大化するには「配本数が多く、話題性がある」売れる本に傾斜すると、私は思います。同じ値段で、10冊入荷される本と100冊入荷される本がある場合、当然、後者の方が人気がある・売れる見込みがあるからその冊数になっているので、10%買う人が増えるかもしれない手間をかけるならば、後者を選びます。



販促は売れる小説に書けます(作家の書店営業について)と、作家の方の記述にもありますが、その通りだと思います。そうでない本はどうやって書店と接点を持ちえるのか、というところが次の話になります。


4.書店の方に提案可能な「私」の取り組み

これまでのテキストは私が把握する情報を羅列したのみで、嘆く感情はありません。同人誌よりは遥かに気が楽ですし、著者には契約上、一切リスクがありません。同人では自分の判断で増刷を行い、委託やイベントの在庫搬入も相当大変でした。



今、私がしたいことは、出版でしか体験できないことです。私はこの本を通じて、私が好きな世界をシェアする人が広まることや、作品が増えることを願っています。また、本を出版して売って下さる方たちに何を返せるか、というところを考えつつ、無理がない提案を探しています。



書店を軸に考えると、手段は絞られます。書店員の方によるアクションとしては、POPによるレコメンドやブックフェア、品揃えの工夫、「本屋大賞」のような書店発の話題性を生む試みなど、様々な展開も行われていますし、書店員の方による陳列棚作りが行われ、POSや経験に基づいて精度が上がっているところもあると伝え聞きます。



そこに重なる形で自分が役立てる領域があるかを踏まえ、自著の認知を店頭で向上させる手段としては、穏当に「POPとブックフェア(本のラインナップ情報)」の提案になると思います。いずれも私は自分の事例として体験しておりますが、売り上げについては把握しておりませんので、そこは差し引いて聞いていただければと。


4-1.POPは店員の方々によることを前提

著者や出版社がPOPを主体的に作って売り込んでいくかは、コストや現場での作業の手間などを含め、本の種類によると思います。大部数の販売が見込めるならば著者の手書きPOPは話題性を持つでしょう。



しかし、POPに関しては、「使いたいと思った時、使える素材が目に入る」ぐらいが現実的だと思います。POPを使うかは店舗の面積や構成によります。また、POP を配るのはやめろという、整理されているテキストでは、POPが多すぎたり、意図が不明確なものではノイズになる、と指摘されています。



この辺りは時代も変わってきているのか、ウェブでのダウンロード方式も見受けられ、「書店の方が選択できる」方式が好まれているように感じます。あくまでも感覚に過ぎませんが、新潮社では編集部が書店POPを作り、ダウンロード可能にしています。



私の本の場合、POPという発想がなかったので、著者のアクションはありませんでした。ただ、運良く、書店の方が動いて下さったことで、複数の事例があります。



1つ目は書店員の方に自発的にPOPを作っていただけたケースです。すべての事例を把握してはいませんが、秋葉原有隣堂ヨドバシAKIBA店、とらのあなメロンブックスなど、様々な店舗で行っていただけました。



2つ目は編集部との連携です。大目に部数を仕入れてフェアを行って下さる啓文堂書店三鷹店様に、私の担当編集さんは『英国メイドの世界』の帯をベースにしたイラスト+手書きスペースのあるPOPを準備してくれました。以下が、実際にPOPを使っていただいた時のものです。







その後、他の書店でも使えるかもということで、編集部に問い合わせをしていただき、送付する運用となりました。告知は編集部ブログと私のブログで行うに留まっていますが、変形的なダウンロード方式になるでしょうか。



いずれにせよ、POPの効果は実際の現場で配置を行う店員の方々にかかっているので、「店員の方々に」本が持つ話題性や魅力、コンテクストを事前にどれだけ伝えられるか、伝えたいと感じていただけるかというところによりそうです。



私の本の場合はどういう経緯で書店の方に伝わったかわかりませんが、秋葉原では「メイド」という話題性とPOP自体がネタになる土地柄、一般書店では店員の方が同人誌の頃から見て下さっていたのかなぁと考えています。


4-2.書籍フェア・棚つくりへの著者リソース利用の提案

「私の本を売る」発想を捨てれば、書店が得る利益を大きくできる提案をできます。「書店フェア」と、その為の「著者リソース利用の提案」です。



当たり前の結論で面白みがないかもしれませんが、「私の本を売って欲しいから、私の本を売るフェアをして欲しい」ではなく、「世の中のトレンドに沿ったコンテクストを著者が提案し、その中に自分の本も含める」ことができれば、読者にとっては「話題性がある発見」、書店にとっては「売上」、著者にとっては「自著の売上」と「フェアで扱う領域のジャンル活性化」が期待されます。



丸善と取り組む松岡正剛さんレベルの「世界観で魅せる」フェアには遠く及びませんが、少なくとも、学術書ではない範囲で日本で刊行されるメイドや執事、ヴィクトリア朝の歴史本・小説など諸々含めた私の関心領域は広く、また「読者」に近いです。その領域にどっぷり浸かっていますので、幅広い提案が可能だと思います。



私は「自分の本と近しい本」を見つけ、また補い合えることを前提に「本を一人しない」提案をできるのではないかと思います。ある領域に特化した著者は、相手に応じて本のラインナップを提案する感覚を持つはずです。書店は併売データとして持ち得ると思うので、その辺りをうまく一緒にできないものかなぁと考えています。


4-3.POPと書籍フェアの実例

以下、実例(結果データは把握せず)を交えて取り組みをご紹介します。



2010年11月の発売時、啓文堂書店三鷹店様で多く本を仕入れて下さり、先ほど事例として挙げたように、担当編集さんから「鶴田謙二さんのイラストがある帯をモチーフにしたPOP」を同書店に送って下さいました。



その後、「書店フェア」を行って下さっていることから、「私の方でラインナップを提案しましょうか」と関連書籍リストの候補とその理由(時事ネタや関連性の強さなど)を編集部に送りました。それから書店の担当の方が選定を行い、その本を紹介する短いコメントを私が考える、という流れで話が進みました。



英国メイドの世界へようこそ啓文堂書店三鷹店様:2011/11/17〜)



すべてが同時に行われたわけではありませんが、結果として、11月に始まったフェアが1月中は続き、こっそり、11月、12月にうかがった時には本のラインナップも都度変わっていました。1月になってからネットで知ったのは、「私のレコメンド」を編集部が本のデザインに合わせたペーパーを作ってくれていたことです。1月の時点で、このフェアを紹介して下さったブログがありました。



書原、啓文堂書店、平安堂……続・書店のいろいろ



詳細は是非、リンクを読んでいただきたいのですが、「関連書籍があることで、本の文脈の広さを伝えられること」(メイド=萌え、という認識が強く、それと異なる本であることを「周辺の本」が伝えてくれる=著者にメリット)、「書店独自のフェアが面白い、との感想」(書店のブランディングにメリット)があったように感じられます。



実際のところ「全体での本の売り上げ」という結果を出せているかは分かりませんが、著者の心情として取り組んでいただいたことが嬉しかったですし、少しでも援護射撃をしたいとこのようにウェブでテキストを書いています。


5.まとめ

これら2つの経緯から、私は著者ができることはウェブを通じて、「POPがある」ことや、「この領域は今、こうしたトレンドがある」ことを示したり、「私の本は、実はこうした側面があり、このいま話題の本と関連性がある」と伝えることなのかと、思う次第です。


5-1.文脈を作る・関連性を描く

たとえば、2010年の直木賞受賞作『小さいおうち』は女中の話でしたが、日本の女中の歴史を扱った『<女中>イメージの文化史』という本をご存知でしょうか? 1800円ぐらいで、メイドが好きな人にも意外と知られていません。昨年は講談社から『一〇〇年前の女の子』という本が書評で扱われましたが、この3つを結びつけたり、そこから比較して、ではその同じくらいの頃を生きたイギリスのメイドは、という「メイド軸」での話もできるでしょう。



小さいおうち

小さいおうち



“女中”イメージの家庭文化史

“女中”イメージの家庭文化史



一〇〇年前の女の子

一〇〇年前の女の子





家事労働者としてのメイドを観点にすれば、日本経済新聞2010/12/05付で紹介され、最近ブログでも取り上げた『お母さんは忙しくなるばかり』という本も関連します。同書はアメリカの家事労働と家電の歴史を扱った本で、「家事労働」をメイドに行わせたイギリスとの比較も面白いでしょう。



私の本が新刊であるうちは、同一テーマの領域のアクティベーションに繋がります。『ヴィクトリアン・サーヴァント』(2005年)という学術書は、私の本が刊行してからAMAZONで11月のうちに在庫切れになりました。私のAMAZONアフィリエイトIDでも、何冊か買われていました。当然、単価が高い本は売れにくく、買いにくいので書店フェアの中心としては扱いにくいとうかがっていますので、あまりニッチ過ぎると興味軸で動くネットの方が向いているかもしれません。



ヴィクトリアン・サーヴァント―階下の世界

ヴィクトリアン・サーヴァント―階下の世界





とはいえ、『英国メイドの世界』で紹介した『荊の城』を読まれる読者の方も登場し始めていますし、海外ミステリといえば、最近読書メーター『海外ミステリ好きだが英国の階級制度のややこしさには辟易していたが、この本を読んでかなりすっきりした。』といったコメントを頂きましたようにミステリとも親和性があります。「相互に読者を送りあう」ことも、書店フェアができることなのではないでしょうか。



英国メイドの世界

英国メイドの世界



荊[いばら]の城 上 (創元推理文庫)

荊[いばら]の城 上 (創元推理文庫)





最近よく書いていますが、今、映画化で話題となっている『わたしを離さないで』でカズオ・イシグロに興味を持った人は、たぶん、かなりの確率で『日の名残り』を読むはずです。(AMAZONでも、私が確認した時点でよく一緒に購入されている商品に挙がっています)



わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)

わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)



日の名残り (ハヤカワepi文庫)

日の名残り (ハヤカワepi文庫)





こうした点から、『日の名残り』に再び光が当たれば、映像や、『日の名残り』で照らす執事への関心も高まることが予想されます。それが直接私の本に結びつくかはわかりませんが、執事や貴族の屋敷に興味を持つ人が増えるのは嬉しいことです。さらに、過去に『日の名残り』の映画を見た人、あるいは小説を読んだ人にとって、『英国メイドの世界』は作品をもう一度楽しむための、新しい視点となりえます。[コラム]屋敷に仕えた執事に求められた4つの能力というコラムを書きましたが、『英国メイドの世界』は今時点で、日本一、英国執事に詳しい資料だからです。



執事つながりといえば、最近、『謎解きはディナーのあとで』の著者の方のフェアの中に、『英国メイドの世界』を混ぜてくださった書店もありました。こういう本の繋がりを考えるのは、とても楽しいです。



謎解きはディナーのあとで

謎解きはディナーのあとで




5-2.情報を伝える「ウェブ」の窓口を著者が持つ

書店フェアやPOPの取り組みは、本来、著者が知る必要のない情報かもしれません。著者は次回作を、良い作品を作り続けるのが本分で、それこそが作者に求められることだと。



ただ、私の場合、「自分の多くの作品の中の一冊」とするほどには、本を作れると思っていません。出産ぐらい大変な思いをしましたから、大切に育てるつもりですし、親バカなればこそ、子供が置かれる環境を「出来るだけいい場所」「輝く場所で」整えたいエゴもあります。



書店での特定領域の書籍選定に私も加えてください、というところが、今時点の私が「してきたこと」を含めた結論です。著者は読者と繋がるだけではなく、書店の方々と、もっと繋がってもいいのではないかなぁと思います。去年12月に佐々木俊尚さんの以下の呟きを拝見しましたが、そこに著者も入っていいのではと思った次第です。







実際に取り組むとなると相互に時間もかかるので、今時点ではPOPダウンロード同様、ウェブに私が情報を置き、書店の方が必要と思った際に参考にしてもらう方向が現実的な落としどころだと考えます。特別面白い話ではなく、応用できるのかも分かりませんが、これが私が初めて本を出した体験(発売から3か月経過)を通じて、今後に何ができるかを考えた、今のところの答えです。とにかく何をするにも、著者が何かを行うならば、私はウェブを使うことがすべての前提だと思っています。



利用されるかは分かりませんが、特にコストもかからないので、近いうちに書店の方に向けた情報を掲載したカテゴリを、資料紹介サイトに作るつもりです。より深いコミットが必要な場合は、編集部に問い合わせていただくことになります。



(※2011/02/16 書店・店員の皆様へカテゴリを新設し、情報をまとめました。フェアの提案は後日行う予定ですが、いざ作ろうとすると難しいものですね)



今回記したテキストは「取り組み」が行える書店や、本の領域を極めて限定した話です。アクションを行えない書店に向けては、引き続き、本の認知度を高める方向にてウェブでの活動を続けるつもりです。



余談ですが、最近目を引いたウェブでの試みは、星海社『最前線セレクションズ』のPOP印刷機能についてです。著名な方々が交代制で毎日オススメのアイテムを紹介する企画自体は「クリエーターの原点・個性」を知る上で面白く、さらには出版社が自社メディアで自社以外のアイテムを宣伝し、なおかつ、そのクリエーターによるレコメンドを様々な店舗でPOPとして使えるようにする試みは、販売の現場にネタを提供するツールになるでしょう。



次回はウェブを含めて、刊行前からどのようなアクションをしてきたのかを書きます。こちらの方が、より具体的な体験談になります。


メイドブームを整理していて気付いたこと

前にも少し触れましたが、世の中で伝わる「メイド・イメージ」は限定的で、多様性を伝えるのが難しく思えましたので、整理することにしました。私が個人的に存じ上げる詳しい方々や雑誌、売り上げデータ、コンテンツの発売リストなどの情報から、なるべく「主観」を排して、その当時存在したトレンドを表現の観点で見ていく試みは、『英国メイドの世界』で試みたことと構造的には同一です。



[特集]仮説『日本のメイドブームの可視化(第1〜5期)』

[特集]第1期メイドブーム「日本のメイドさん」確立へ(1990年代)(2011/01/29)



昨年8月末からは補足・メイドブームの断続性と連続性を考える(2010/09/11)とテキストを書きましたが、前回の「考察」から踏み込んだレベルにできたとは思います。



だいたい4か月半かかりましたが、疑問に思うところを詰め、直感だったところを他の方に学びながら、前回から大きく変わった情報に出来たと思います。



このようにメイドブームを整理していて、「メイドが好き」といっても「和菓子が好き」なのと「洋菓子が好き」なぐらいに内部ではカテゴライズの違いがあって、ただ「メイド服」という存在が強すぎてその違いがなかなか自分には見えなかった、というのを自覚しました。



私は「メイド喫茶に行く人はメイドの創作表現が好きな人」だ思いつつ、同時に「メイドの創作表現が好きな人はメイド喫茶に行くとは限らない」ことも知っていました。しかし「メイド喫茶に行く人が、メイドの創作表現が好きとは限らない」ことに、それほど気づいていませんでした。



私の同人活動で出会う人はそのほとんどが「メイドの創作表現が好き」な方でセグメントされており、「喫茶にも行っている人がいる」という認識があるぐらいでした。私は「メイド喫茶にしか行かない方々」の情報に接しませんでしたし、ネットで主体的に得ようとしませんでした。



そんな私が、Twitterでのフォローやシャッツキステとのイベントを通じ、「メイド喫茶が好き」な人々に接する機会を得ました。シャッツキステのイベントでは「シャッツキステが好き」な方々に出会いました。ネットでも、少し意識するようになりました。すると、メイドの歴史や創作されたメイド(『まほろまてぃっく』など)と関係なく、「メイド喫茶が好き」な方も多いのだなぁとの印象を受けました。



私は「メイド」にまつわる多様性を自覚しつつ、「自分の目で見た世界」に捕らわれて、今まで接していなかった世界の在り方を十分に理解できていませんでした。その点で、メイドブームの考察はこうした体験を理解し、まとめ直す意味でもいい刺激になりました。



「メイド服」という見ている対象はひとつであっても、その実態は大きく異なっています。『動物化するポストモダン』ではキャラクター消費として「メイド服」の属性化を取り上げています。その当時は「創作表現におけるメイドさん」が「メイド服」という属性で象徴されたはずですが、メイド喫茶ブームによって2011年の今は「メイド服」でイメージされる意味が異なっているでしょう。その10年の変化は、面白いものです。



私は、「メイドの違い」を強調するというより、楽しみ方や入口の違いが多ければ多いほど、裾野は広く、面白さが広がると思います。「読書が好き」といって読む本が違っても、「本が好き」な人には仲間意識があるように。私が作った『英国メイドの世界』は、その繋がりを強め、境界をまたいでいくことの一助になればとも思います。ウェブを見ていると、メイド喫茶で働く方やメイド服を着てサービスを行う方の手に届いているようでもあります。



歴史的なメイドや現代の海外にいるメイドを学べば学ぶほど、日本のメイドの描かれ方が私には興味深く、貴重に思えます。その貴重さを、他と比較することで伝えられないかなぁと、これは長期的視点で思っています。



同じ「メイド服」、同じ「メイドさん」という言葉でも、聞き手や語り手によって受け止め方が異なるのを自覚しつつ、そのあたりの話はまた続きの分析で可視化するつもりです。いつになるか分かりませんが、せめて2月中には。


家事とメイドが透明な存在であることと

『まおゆう』2巻はかなりメイド回で、料理を行うメイド妹の、料理がもたらす幸福感についての描写が素敵です。何よりも、今回はお腹が空いた状態で読むと危険です。食欲増進的においしそうな料理の描写が多くないでしょうか? かつてギムがお祭りでほおばった鳥の照り焼き的な何かを想起させます。私が空腹状態で読んだから余計そう感じたのかもしれません。



『まおゆう』の料理メニューで、特集を組めそうな感じですね。中世から近世の料理を食べさせるイベントか何かを執り行うメイド喫茶があると面白そうです。食事を体験してみたいです。食の素材にまつわるエピソードも面白いです。こういう読み方が純然たるオタク的なのですが、メイド妹のような腕のいい料理人は魔法使いのように貴重でしょうし、周りの人も幸せでしょう。



というところで、著者の橙乃ままれさんのブログをチェックしたところ、2巻の裏話的なところや、家事を巡る話を「家妖精」と題して書かれています。また、文中で『英国メイドの世界』のご紹介もいただけて嬉しいです。



折角なので、家事と家妖精について徒然と書いてみます。


大変な洗濯事情

家事は本当に大変な作業でした。特に洗濯は「衣類が水を吸う」ので重労働で、衣類の素材によって洗い方を変えないといけませんし、「洗濯できる」綿製品の普及で清潔さに対する水準が上がったので洗濯の頻度が上がりました。さらには消毒や石鹸を泡立たせるのに熱湯を使ったりと、火傷→致死の危険もありました。



ロンドンの場合、水事情の悪さや石炭の煤で干す場所に恵まれなかった事情もありますが、クリーニング屋さんが19世紀ロンドン(年代は調べていないです)には登場しているのも頷けます。王室は専門のランドリーを、ロンドンに社交の季節に来ている裕福な人々も地方の領地に鉄道で洗濯物を送ったり、あるいは高価で繊細な下着類は引退したかつてのランドリーメイドにアウトソーシングしたり(侍女Roseのお母さん)と、面白いモノの流れもありました。



今の全自動洗濯機がどれだけ便利なのか、つい忘れそうです。全自動洗濯機の導入は事件だったと思います。以前、『ど根性ガエル』のアニメで「洗濯板から洗濯機に買い替える→ぴょん吉を回転させるので回転に慣れる訓練をする→巨大船のスクリューに張り付けて船が何か事故にあって、くくりつける判断をしたひろしが自分を責め、洗濯機をバットで叩き壊す→ぴょん吉が根性で船ごと帰ってくる」と、今書いていても何を言っているか分からない的なあらすじで、子供ながらに洗濯機もったないと思ったものですが、全自動洗濯機だけで1話アニメが作れてしまう時代だったのでしょう。


家妖精と「透明なハウスメイド」

家妖精でいえば、日本では『ハリー・ポッター』シリーズで登場する有名なドビーとクリーチャーが記憶にあると思います。ハリー・ポッターで不死鳥の騎士団の拠点は私にとって涙が出そうな、ロンドンのテラスハウスで、キッチンの描写や家屋の構造に目が向いてしまいますが、映画の中、彼ら家妖精は主人に使役される立場でしたし、人目を忍んで動いている姿は、屋敷で「透明」とされたハウスメイドを連想します。



朝起きたら何もかもが片付いている、暖炉に火が入り、洗面台には水もお湯もあり、リネンもきれいになっている状況はハウスメイドの仕事ですが、その姿を見る機会がなければ「妖精」がやったようにも見えるでしょう。



全員がメイドを雇用できるだけの経済力を持っていたわけではなく、ままれさんは「家事をやってくれる誰か」を求める心が家妖精の伝承を生んだのではないかとの指摘もされています。翻ると、「日本のメイドさん」(家政婦的イメージ)の普及もまた何を夢見る心からというところもありますが、初期にあっては「戦闘美少女」の系譜に連なっていたり、「制服趣味」(カフェ・レストラン)が強そうだったりと、一概には言えませんね。



現代日本ではアウトソーシングが進み、メイドを雇わずにも済むだけの便利さが実現されていますが、高齢化社会が進むと動けない・家から出られないところで介護領域における家事需要は高まることにもなります。しかし、人件費や人口バランスの問題で海外からの流入も増えていくのか(現在、海外の介護士の方々の派遣は生じています)、それとも、日本の科学力でメイドロボ的な方向(人に似なくてもいいのですが)で解消するのでしょうか。



以前、セコムのCMで死んだ?おじいちゃんが家事をしているのを見て少し切なくなりましたが、自分も百年後ぐらいには召喚されるのかなぁと……持ちつ持たれつ的に。ただやっぱり、サービスに頼ると非常にお金がかかるわけで、そこで予算を削ろうとすると今度は働き手の待遇が悪化する可能性が高い事情もあって、家妖精を求める心はこの先ずっと、盛り上がっていきそうな予感もします。


余談:因果関係を学ぶ機会との指摘

ところで「魔法のように、きれいになっている」状況は、人の価値観形成の上でデメリットがあると、最近読んでいる海外のメイド事情の本に書いてありました。物事の因果関係(汚したら、汚れる)が分からなくなる・気にしなくなる、という点です。「何かを汚した」結果、「自分で片づけなくても、勝手に片付いている」との状況は、「何かを汚すことへのためらい」を減らすそうです。



言われてみると、英国のメイド事情を学ぶ中でも、お嬢様の中には衣類をひどいぐらいに脱ぎ散らかしてメイドの心を折ったり、やはり主人の中にもハンティング用の衣装をめちゃくちゃにした挙句、腹に据えかねたヴァレットに逃げられたとの話も読んでいました。私は多分片づける側の生き方なので、こうした雇用主を快く感じないのでしょう。



もちろん、同じ状況でもそうしない人の方が多いでしょうが、今の私が生きる環境も社会全体でいろいろと分業化・アウトソーシングしているので「因果関係が見えにくい」はずで、気づかずに何か似たようなことをしてしまっているんだろうなぁとの実感はありますが、段々と感覚的な方向になってきたので、そろそろ終わりにて。


終わりに

家事を巡る社会環境を知る意味で、この前書いた『お母さんは忙しくなるばかり 家事労働とテクノロジーの社会史』で家電が増えても他のことで時間とられて忙しいよという話もありますし、英国メイドの歴史は「近代」をモノを軸にした消費生活から見るので面白いですよと、いう話にて。



冒頭で書きましたが、どこか『まおゆう』で出てきたメニューを提供してくれませんかと繰り返しつつ。以前はこういう目で見ていなかったので気づきませんでしたが、巻が進むごとに料理が開発されていったような気も。


本を書店で初めて売る体験から気づいたこと

本コラムは出版した本に1日でも長く生きてもらうため、著者に出来ることの第2回目です。本を出した著者が何を出来るのかを考えていくテキストです。



初見の方は、上記リンクを先にお読みください。


目次

  • 1.はじめに
  • 2.筆者が自分の本をなかなか見つけられない〜ジャンルの曖昧さ
  • 3.新刊の強さ
  • 4.書店には本が多すぎる
  • 5.総論


1.はじめに

『英国メイドの世界』の刊行後、私は配本を確認している大書店に出かけました。自分の本が売られているのを見て、私は「ただ書店に並べられるだけでは、買われない(買う気が起こらない)と」思いました。



そもそも書店にはあまりにも多くの本が並んでいました。「こんなに本があるのに、自分の本は見つけてもらえるのだろうか?」と感じたのが、今回のテキストのスタート地点です。


2.筆者が自分の本をなかなか見つけられない〜ジャンルの曖昧さ

まず、私が訪問したお店のほとんどで、自分の本をすぐに見つけられませんでした。『英国メイドの世界』の場合、元々の文脈自体に曖昧さがあって、配置場所の選定で書店員さんを困らせたようでもあります。



「本がどこに置かれていたか」を下記に列挙します。どれぐらい曖昧なのか、「観測者によって意味が異なるのか」、ご覧ください。


2-1.私が見たリアル書店での展開

私の見た(+知人に聞いた)範囲です。それでも、これだけの陳列をされていますし、そのどれもが頷けるものです。複数の面で展開していただくこともありました。(紀伊国屋書店新宿南口店では「歴史+サブカルチャー」、有隣堂ヨドバシAKIBA店では「新刊+サブカルチャー」など)


  1. サブカルチャー
  2. 歴史/イギリス史
  3. 歴史/文化史
  4. 英国ミステリ棚(ホームズの近く)
  5. コミックス(『エマ』などの「メイド」の近く)
  6. 資料系(TRPG
  7. 資料系(漫画制作)
  8. 新刊棚(各コーナー、またはサブカルチャー。一店舗のみ文芸新刊の並びに)
  9. 書籍フェア(啓文堂書店三鷹店様のみ)
  10. 上記パターンの複数組み合わせ



分類を見ていくと、書店員の方が工夫をして下さっているところも見受けられます。有隣堂ヨドバシAKIBA店、メロンブックス秋葉原店、虎の穴など、店員の方が手書きでポップをつけて下さる書店もありましたが、これだけの文脈を持つ本というのは、伝え方が難しいのではないかと痛感した次第です。



書籍フェアをこの段階で行っていただけたのは奇跡のようなものですが、結果を返せているのかは気になっています。


2-2.代表的ネット書店での分類

次に、ネット書店での陳列です。ネット書店は私が思うに、タイトルで本を検索できたり、本を紹介したサイトから直接流入する傾向が強いと思うので、本を見つける上では迷いにくいのですが、「本をネット書店に並べる」段階でも、本が持つ曖昧さが伝わります。


本 > 小説・エッセイ > エッセイ > エッセイ

本 > 歴史・地理・民俗 > 歴史 > ヨーロッパ史西洋史 > イギリス史

本 > 歴史・地理 > 地理・地域研究

本 > 社会・政治 > 社会学 > 社会学概論

本 > 投資・金融・会社経営


分類 人文 /文化・民俗 /文化・民俗事情(海外)


2-3.「講談社BOXレーベル」ではない

刊行される本は出版社内の「編集部=レーベル・ブランド」に属すことがあります。しかし『英国メイドの世界』は、刊行元の講談社BOX編集部の「講談社BOXレーベル」と同じところには並べてもらえていません。本の大きさが違いますし(BOXはB6、本書はA5)、厳密にはレーベルも異なるからです。



『英国メイドの世界』の所属する分類は「講談社BOXピース」で、外見では「講談社」とのみ記され、フリップか奥付を見ない限り、講談社BOXだと気づかれません。



とはいえ、読者層やターゲットの異なりや、「小説」ではないがゆえに上記のように多面的に展開できる強みがあるので、そこは相殺というところです。多分、講談社BOXの中では読者の女性比率が非常に高い方だと思います。



余談ですが、メロンブックス秋葉原店が、講談社BOX作品のコメントを使ったポップを作ってくださる奇跡が起こりました。『化物語』とメイド繋がり・実は講談社BOXなのです(2010/11/27)と、ブログに書きましたが、こういう接点が生まれることはすごいと思います。


2-4.曖昧さによる広がりと扱いの難しさ

「曖昧さ(多義性)」は本が多様な文脈で読まれる=読者層に広がりがあることを意味し、潜在的な読者の方と多くの接点を持ち得る本だと思うので、私にとって配置の曖昧さは設計通りでした。しかし、書店ごとに配置場所が異なることは探しにくさや出会いにくさに繋がる状況は、想定以上でした。



本が持つ多義性は、読まれなければ伝わりません。書店での展開はタイトルに「メイド」の文字を含むことで想定以上に読者イメージが限定されすぎ、「メイド=関係ない」と、「読まれにくい」構図が存在するのを感じました。私のリアルの知人からも、「読むと面白いけど、知人でなければ『メイド』は関係ないと思って、手にしなかった」との感想を複数貰いました。



サブカルチャーに置かれるより、個人的には歴史に置かれた方がいいとは思います。しかし、歴史コーナーにどれだけ人が来るのかといえば難しいところです。さらに『資料系(漫画制作)』はあまりにニッチ過ぎて人が通らないのではないかと思います。「配置される」→「人が通らない」→「読まれない」構図はできるだけ避けたいものです。



配置された場所が適切でも、本が持つ要素を伝えるのは難しいものです。書店ではネットで広く解釈してくれる文脈(同人活動のバックボーン、過去に同人版を1.4トン刷っている編集部による大きなブラッシュアップ、英国の「館」ミステリとの高い親和性、システムエンジニア的に屋敷という職場を見る観点など)ほど、「今の本の形では、これらは一切伝わらない」文脈です。私が伝えたい情報が多すぎるというエゴですが、書店で「本」の形で伝えられる情報は、少なすぎると感じました。


3.新刊の強さ

書店での配置は「ジャンル」だけではありません。次に、もうひとつの陳列方法「新刊」を見ていきます。書店を普段から眺めていて、書店で「陳列される」手段として「新刊」は最も良い場所を確保する有効な手段のひとつです。


3-1.新刊=目立つ

自分の本を探して書店を訪問した私が、最も簡単に本を見つけられたのは「新刊」コーナーでした。新刊はお店の入り口など目立つ場所に展開します。『英国メイドの世界』は分厚く、非常に目立ちました。



「新刊」という扱いは基本的に水物ですが、競争相手は「その時期に出る新刊」だけといえます。時代や国境を超える世界的な名作の「既刊」があっても、「新刊」の売り場面積を脅かすことは少なく、「既刊」は長期のベストセラーや、映画・ドラマ、出版社によるプッシュやフェア以外では、積極的に展開されません。



書店で新刊に並べられているところを見るのは嬉しいことでしたが、新刊が「新刊」として売れなければ、早期に返本され、書店から姿を消すことになります。書店のスペースは限られていますから、次の新刊が来たとき、私の本はしっかりと「既刊」の棚に入るこむことができるのでしょうか?



私は、自分の本が「新刊の強さ」を失うと、何か風が吹かない限りは再浮上が困難だと考えました。出版実績がない私にとって、発売からの最初の1か月が勝負だったのは、「いつまでも店頭においてもらえるとは限らない」と思えたからです。


3-2.同人イベントでも「新刊」が売れる

余談ですが、同人イベントにサークル参加した私の経験上、最も売れる本は「新刊」でした。そして新刊があることで既刊の併売が生じ、部数全体が伸びました。シリーズ物の場合、当然ながら既刊がないと、続きの新刊の買い控えが生じます。



同人イベントの場合はサークルのファンになってリピーターが増加し、「新刊」を買いに来る方が増えていくので「最も新刊が売れる」という性質を持っています。



きっと、私の本が売れる機会を人為的に作れるとしたら、同人誌のように「新刊を出す」ことでしょう。しかし、私の場合は「次」があるかは最初の本の結果次第で、これは期待できません。生涯で作れる本は限られていると思っています。


4.書店には本が多すぎる

最後に、本屋さんを歩いてみて感じたのは、「本が多すぎること」です。本同士が自分の情報を殺しあっているのではないかと、感じました。本が売れない理由の一つには刊行点数の多さが指摘されています。



「本が売れない」ホントの理由を知るための三冊には、『本の現場』という本の情報として、「ここ30年で書籍の出版点数は4倍になったが、販売金額は2倍程度だという」との情報が記されています。(後日、紹介された本は読むつもりです) だとすると、本一冊の書店での滞在期間や認知機会は限られます。



「刊行点数の多さ」に関連する話として、新書バブルと呼ばれる状況や、レーベルが群立するライトノベルの刊行点数の多さも話題にもなります。たとえば「ラノベ 表紙 一覧」で検索すると1位にでてくるのは『その他』2010年9月版のライトノベル表紙一覧という2ちゃんねる系のまとめサイトで、このページを見ると、1ヶ月における刊行点数の多さに驚愕します。



私が子供の頃は角川スニーカー文庫が出来始め、富士見ファンタジア文庫、そして電撃文庫が強いぐらいの印象でしたが、今はレーベルと作家も増え、以前より一人当たりの作家が得られる認知機会が低いように思います。



ラノベの話は極端な例ですし、私が刊行する領域と重なりはありませんが、刊行点数が増えていることは、自分の本の存在感を相対的に低め、書店での棚の奪い合いにも繋がっていることが、お伝えしたいことでした。


5.総論

書店を巡ることで、「本をただ出しても、読者には出会えない」と強く感じました。書店には本があふれ、目に留まるのは難しいというのが実感です。新刊はボーナスステージみたいなもので、すぐに時間は過ぎ去ります。コンスタントに各出版社から新刊が出続ける状況、売れない本は返本されます。読者に出会う状況を維持するには、「定期的に売れる」必要がありますし、まず返本されないためにも、初期に認知機会を得ていくアクションを行いました。



しかし、「本の読者数の上限」があるのではないかとの疑問も出てきます。私の場合、「存在していない本」を目指したので競合はあまり存在せず、競合としての重なりを持つ学術書とも読者対象が異なる点で、差別化は出来ていました。とはいえ、顕在化する領域の対象読者の絶対数(メイドに興味を持つ人)が少ないように見えるため、「この本は、メイドが好きな人に行き届いたら、終了」「そんなにいないよね?」という判断をされるかもしれません。



今時点での「本の認知度」(=私の情報発信力)では、「知っていれば、読みたい」と思う人に行き届いたようには見えていないので、のびしろはまだあると思います。また、伝え方を変えれば、より多くの読者の方に「あぁ、自分はこの本を楽しめる要素を持っているんだ」と気づいていただけると、コミケやウェブで経験的に知っているので、未来の読者の方々と出会う「物語つくり」をウェブで行います。



100人が興味を持つテーマでも、100個集まれば1万になるように、『英国メイドの世界』を100通り、1000通りの伝え方をできるように。実際の数字を出すことでしか結果を示せませんが、この可能性を信じて本を作っていますし、その努力を楽しみながらしているところです。



長期的な話はさておき、「(見つけられない・気づいてもらえない→)売れない→店頭から消える」事態を避けるためにどうすればいいのか、というところが一連のテーマです。「本の寿命・性質」によって状況は異なるので、この考え方が適用できる本は少ないかもしれませんが、努力して改善できる余地を探すのが私の一連の考察の原点です。



最後に補足です。



書店で売ることを軸にした話をしてきましたが、当然、「多様な文脈で伝えられるネットを活用し、ネット書店で売り続ければいい」との話もあると思います。これはもっともですし、著者の自由度が高いウェブで売ることは私にとって前提です。最近では活動の幅を広げられている東浩紀さんが会員組織の運営や自身の表現の場として出版社を立ち上げました。Twitterの宣伝だけで、刊行した『思想地図β』が1か月で2万部、そのうちAMAZONだけで約1/3という、驚異的な数字を出しています。







ここ数年は同人誌の世界でも、知名度を持つニュースサイトがコミケにサークル参加すると「壁配置」(大手サークル同様)になる現象も見られています。さすがにこれらの事例は私には遥かに遠いところではありますが、自分にできることがゼロではなく、作り手の活動や本の存在を伝える手段となる「ネット」は前提ですし、これまでにやってきたこと(発売日からの1か月)はその文脈に基づくものです。



しかし、個人的な感想ですが、「ネットと書店」では出会いの機会の「面」が圧倒的に異なります。そもそも著者の認知度が低い「私」のレベルでは、ネットだけでアプローチ出来る範囲は限られています。その上で書店で売ることも一緒に考えるのが、今回の趣旨です。



ネットで出会えない人に本を届ける手段として、今でも「書店」は圧倒的存在感を持ちます。電子書籍に個人的に取り組むよりも前に「紙の本」に意識が向くのも、今時点で「私の本を既に販売してくださっている書店の方々」に何を返せるのか、というところを自分なりに確認したいからです。



こうした「出来ることに取り組む」スタンスに似通っている部分が少なからずあるようで、橙乃ままれさん(ウェブで公開した小説『まおゆう』の出版を行い、現在ウェブで連載中の『ログ・ホライズン』の出版化も控える)と、次のようなやりとりがありました。















私もままれさんも、出版という機会に得られる「経験」を最大限に、自分なりに楽しみつくそうと思っているのかもしれません。出版は、多くの人と繋がる・接続する機会にもなりました。そして、そのおかれた境遇で出来ることを楽しみ、出来ることを自分で広げて「ルール」を作っていくような。



ままれさんのウェブとの取り組み方も、参考になるものが多いです。窓が開かれている、というのでしょうか。ログ・ホライズンの感想掲示板に返事を書いていたり、同作品の書籍化に際してTwitter上でのログホラ1アイテム募集など、ウェブであることを積極的に楽しんでいる印象があります。



私が知らないだけで、ネットを軸に活動される方々はもっと多いでしょうし、もっと楽しみ方があるでしょう。というところはここ10年以上、ネットの普及で積み重ねられた領域ですが、それを前提とした上で、「今、書店と何が取り組める」のかを考えることに、私は「経験を積む機会・楽しみ」を見出そうと思っています。



少し長くなりましたが、上記で考えていたテキストがこの一連の考察になります。次回は「書店と何ができるか」「書店に何を返せるか」について考え、自分のできることを探してみるつもりです。これから先は、自分の意思次第、です。


2011/02/07 続きを公開しました。

第3回目:書店で本を売る現状認識と著者が提案可能なアクション(2011/02/07)

日本で描かれたメイドイメージとブームを考えた1年

今年1年は、メイドブームをいろいろと考えていました。以下、Twitterで呟いていたものをまとめていただけていたので、ご紹介です。



メイドブームはいかに発生し定着していったのか?



補足となりますが、以下が今の把握している「断続するメイドブーム」です。世の中的には全部「メイド」としてまとめられています。



「成年向けPCゲーム」(第一次)→主従関係・SM・従属
「コスプレ」(第二次)→かわいらしさ+属性化
「喫茶化・メイド喫茶的独自展開の深化」(第三次)→独自
秋葉原電車男・流行語対象・『エマ』アニメ化」(第四次・ブームのピーク)→萌え+観光化+英国回帰
「創作でのメイド喫茶・メイド服(+アキバ)イメージ再生産」(第五次)→定着



他に、日本のメイドブーム関連の情報一覧(2010/12/25)も整理しました。



なぜ今になって「英国メイド」を学ぶ私が「日本のメイドブーム」を振り返るのかと言うところですが、これは2つの理由があります。



1つ目は「英国メイド」を学び続けると「現代に存在する海外のメイド」に断続していくのですが、日本の場合はそれが途絶えています。その違いの理由を明確にしたいのと、「日本のメイド」の特異性を「英国」「海外」と相対化することで描きえるのではないか、というところが私が今年達した仮説です。詳細は2010年『ヴィクトリア朝と屋敷とメイドさん』アクセスランキング・ベスト10(2010/12/26)の1位に記しています。



2つ目はメイドの持つ曖昧性をクリアにしたいことです。少なからず私はブームの中で育ちました。仮に第一次ブームの臨界点を『殻の中の小鳥』1996年とすると、ブームから14年が経過しています。ただ、ブームそのものは私が思うに断続的に生じており、その都度、メイドに求めるものが違っていて、とても分かりにくい印象です。



こうした分かりにくさや、メイドの持つ曖昧さを分かりやすく伝えたい、また自分が語ることによって「そうではない」と他の照らし方が出ることを期待して、一連の記述をしています。異なることが同時多発的に生じているので、現象そのものをひとつにまとめることはそもそも無理なのでしょうが、「どう見えていたか」ぐらいは残したいものです。


語り手と、今残る情報

上記の流れについて概要を示す資料はいくつか見ていますので、後日、これも整理して紹介しますが、最近興味深かったのは2008年に刊行された『メイド喫茶で会いましょう』(ASIN:4862040780)という資料におけるメイド喫茶ブーム総括です。



ここでは、オタクが愛するメイド服の源流を『まほろまてぃっく』と定義し、90年代以降の萌えキャラとしてのメイドのイメージがこの作品で具体的に確立したと記しています。(P.28) 同作品はアニメ化しており、キャラクターイメージの上でも一般化の上でも重要だと思いますし、私自身、この説は有意性が高いように思えるので論証したいと思いましたが、私が今まで見た情報ではそれほど触れられていない(少なくともここまで断言していない。たとえば2006年『メイド喫茶制服コレクション』では言及なし)ので、どういう根拠でこの結論に至ったのかを知りたいと思います。



『まほろまてぃっく』wikipediaを参照すると、「2000年以降に話題となった「メイド喫茶」などのメイドブームにも、多大な影響を与えた[要出典]「メイドもの」のマンガ・アニメ作品の一つである。」と、[要出典]タグがつけられています。この説は、この本が出典なのかというところや、wikiの書き手の方がどの情報をベースに書いたのかを知りたいです。



まほろまてぃっく』と『これが私の御主人様』(デジ子も?)はアニメ化している点で、一般への膾炙に広く影響していそうなのですが、今のところ、私にとってはミッシングリンク的になっています。また、「メイド長」の語源は、『花右京メイド隊』(1999)でしょうか? この作品もアニメ化しています。私は積極的にこれらの作品群に接していなければこそ、積極的に楽しまれた方による、上記作品を含んだブーム考察を読みたいです。



と思っていたところ、貴島吉志さんと観音王子さんの2006年の言説が、この辺りを包括しているのを思い出しました。




貴島
実際、これまでにもメイド萌えというのはあったんだろうとは思う。でも、それを本当に、素直に商品でやったのは凄いよ。
そんな『リトルMyメイド』と同じ時期、ちょうど同じ頃に出て来てたのが『まほろまてぃっく』(※14)。連載開始が98年12月で、第1巻の発売は9月。
メイドさんの誕生が、ゲームと漫画という、二大ヲタクメディアで起こってたんだな。



観音
でも、あの原作者は、エルフのゲームのノベライズを書いてた人なんだよ。
それも『同級生』とかの古い年代のね。
だから、流れとしてはやっぱりエロゲーからではあるかもよ。



貴島
エロゲー的なメイドのイコンを、まほろさんも受け継いでいるよね。
もしかしたら、『河原崎家の一族』とかでのメイドの扱いがあんまりだったものだから、逆にそうした館ものメイドへのカウンター表現として、まほろさんというメイドさんが生まれたのかもしれない。



観音
彼がどこまでエルフ関係だったのかは分からないけどね。
個人的には、まほろさんは『To Heart』のマルチ(※15)の線もあるんじゃないかなって思ってる。
あれはメイド服は着ていないけど、メイドロボだった。



(中略)
貴島
そういえば『まほろまてぃっく』も、『リトルMyメイド』も、どっちもスカートの丈が長いね。
社会的に認知された萌えメイドの起源は、『殻鳥』からのビジュアルの流れに対して、明らかに反発してる。





観音王子×貴島吉志 メイド対談 より引用
http://meimix.moe.to/off1.html


また、先日購入した『コミケットプレス33』特集記事「コスプレ」を読むと、1999年に"メイドコスが大ブーム。その他にギャルゲー系が増え、以降定着していく"(P.7)と記されているのも、メイドブームを知る上で、貴重な声なのではないかと思います。



コスプレでいえば、コスプレに詳しい方による以下のような意見も有ります。



twitter:21294371142:detail


宮崎駿監督アニメの服装とメイド服イメージについて

昨日、『ルパン三世 カリオストロの城』を見ました。クラリスの衣装を見ていて「いいなぁ」と思いつつ(潜入中の不二子の服装もですね)、あらためて「宮崎駿監督的スカート・袖・ドレス」の描写が、ヨーロッパ的でかつクラシカルな雰囲気の衣装の原点のひとつ(現代日本で「クラシカル」と呼ばれるメイド服のデザイン含めて)ではないかと、感じました。



ルパン三世「カリオストロの城」 [Blu-ray]

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メイド服とは、宮崎駿監督作品の要素の一部を具現化したもので、宮崎監督作品が国民的映画として慣れ親しんだ日本人なればこそ、受け入れられている(間口の広さは不明ですが)のではないか、という仮説を私は持っています。



メイドブームがどう成立したかではなく、「誰がメイドブームを受け入れたか」という観点での考察を交えつつ、話を広げて行きます。相変わらず直感に頼っていますが、この辺りは後日調査したいと思っていますし、大学生で服飾関係・メイドブームを考察したい方はこの観点での論考はいかがでしょうか?(人頼み)


目次

  • 宮崎アニメによる「クラシック」な服装描写
  • ヨーロッパ的なるものとメイドブーム(を受け入れた方々)との関連
  • 余談:「ヴィクトリア朝的服装表現」とメイド表現と
    • 日本のメイドブーム関連
    • イギリスのメイドブーム関連(1970年代)


宮崎アニメによる「クラシック」な服装描写

以前、『借りぐらしのアリエッティ』感想とスタジオジブリが描く「風景」(2010/08/08)という感想を書きましたが、『カリオストロの城』を見て、同様のことを想起しました。



ここでクラリスのエンディング付近のドレス(ウェディングドレス)の話に飛びますが、緩やかなラインのスカートに袖がやや膨らんだ、「クラシックっぽい」デザインをしています。ふと思い出したのは、ヴィクトリア朝を舞台にした貴族の屋敷での人間模様を描いたコミックス『Under the Rose』の作者・船戸明里さんによる、「ヴィクトリア朝らしい袖」についての言及です。



作画ミスについてと題する日記の中で、自身が作品で描いた作品での描写について、「描いたデザインはヴィクトリア朝のある一時期のものに過ぎず、全体を代表していない」と、解説をされています。全文を是非読んでいただきたいのですが、この中で非常に面白い指摘が、その袖のデザインを船戸明里さんに刷り込んだ作品が、宮崎駿監督もかかわっていた『名探偵ホームズ』(犬ホームズ)を挙げている点です。




ヴィクトリア朝といえばあの袖」は、間違った感覚であると言い切ってみます。



私が刷り込まれたのは、犬ホームズのハドスン夫人なんですけれども。



めもちょう作画ミスについてより引用


私がここで思い起こすのは、ヴィクトリア朝メイドのロマンスを描いた『エマ』の作者・森薫さんのコメントとしてもハドソン夫人の名があがっていたことです。それは、『エマ ヴィクトリアンガイド』で、森さんが尊敬する漫画家・竹本泉さんとの対談の中で出てきます。




竹本 そういう森さんはメイドはずっとお好きなんですか? きっかけ?
森 きっかけは『ホームズ』のハドソン夫人かな? メイドじゃないけどああいう立場の人が好きなんです。家族じゃないけど世話してくれる人みたいな。
『エマ ヴィクトリアンガイド』P.149より引用


ここでは主に立場的な話になっていますが、森薫さんの表現で宮崎駿監督作品、特にハドソン夫人描写で重なるのは、「走る女性」の姿です。スカートを持って全力で走り、そのときにドロワーズが見える描写(知人の方いわく「ドロチラ」)は宮崎駿監督作品でも見られる描写です。強引な主観かもしれませんが、『エマ』5巻で火事のエピソードで全力で走るエマの躍動感は『名探偵ホームズ』で飛行機を操縦するハドソン夫人に重なります。



宮崎駿監督作品では「全力で走る女性」と「緩やかなラインのスカート」を両立させるためにドロチラが成立していると思いますが、と本筋からずれてきましたが、日本を代表するヴィクトリア朝作品を描かれる漫画家の方々に影響を当てている点で、この界隈の表現と宮崎監督作品は切り離せないのではないかと思うのです。


ヨーロッパ的なるものとメイドブーム(を受け入れた方々)との関連

なぜこの領域の作品が強い影響を受けたのかに、私は興味があり、仮説として、世界名作劇場などのアニメと、過去に放送していた海外ドラマの影響があったことを考えています。そして、こうした諸作品に接していたのは漫画家の方たちだけではなく、私たち読者・視聴者も含まれており、それがメイドブームの広がりに繋がったのではないかと考えています。



私が見た範囲の出来事を、日本ヴィクトリア朝文化研究学会にコラム「日本におけるメイド受容とメイドの魅力」を寄稿しましたが、その際、担当いただいた大学の先生の方から、「『世界名作劇場』がヴィクトリア朝を学ぶきっかけの一つだったかもしれない」との感想をいただきました。



後日、データを増やしたいと思いますが、まず私をサンプルとして振り返ってみます。私は19世紀的な生活文化の描写が好きです。その原点は子供の頃に見た世界名作(アニメ)やその原作小説でしょう。『若草物語』『トム・ソーヤの冒険』、『小公子』『小公女』『秘密の花園』などの作品は今でも覚えていますし(『赤毛のアン』はなぜか、重なっていないのですが)、メイド服に見られるゆるやかなラインのスカートのデザインが好きなのは、確実に『若草物語』の影響です。同人活動の原点の一つは『若草物語』における生活描写への関心(クリスマスプレゼントのお返し、モスリンやライム、失敗した昼食会など)や、時系列を知りたいと思って原作を読み込んで整理したことでした。



アニメだけではなく、英米文学作品、そして映画やドラマも入り口になるでしょう。船戸明里さんはかつて放映されたドラマ『赤毛のアン』『アボンリーへの道』『大草原の小さな家』や『ドクター・クィン』などを日記で紹介されていますし、森薫さんはオペラを題材にした作品を描かれるように衣装劇にも目を向けられています。私も、屋敷へ強い関心を持った原点はアガサ・クリスティー原作のドラマ『名探偵ポワロ』です。



多分、私と同年代(前後10年)の年齢層の方にとって、アニメ作品(宮崎駿監督作品含む)、英米文学(高校や大学で学んだかもしれない)、NHKなど地上波で放映されたドラマシリーズ(ホームズ、ポワロ、赤毛のアン、場合によっては『高慢と偏見』)は非常に幅広く接する機会があったはずで、メイド喫茶で描かれる「クラシカルなメイド」とは、これら諸作品に接してきた人々にとって「作品世界が具現化した」存在ではないか、ヴィクトリア朝や館、メイドの作品は受け入れられるのではないか、というのが私の仮説です。



誰もが最初からメイドの魅力にゼロから目覚めたのではなく、「メイドが表象する何かしらの要素」と、「自分が接してきた諸作品」とが響きあったからと。その接してきた作品に宮崎駿監督がかかわる作品(『カリオストロの城』『天空の城ラピュタ』『魔女の宅急便』『ハウルの動く城』。『耳をすませば』と『借りぐらしのアリエッティ』ではヨーロッパ的描写)が含まれるならば、受容する人たちの間に年代の断絶はないのかもしれません。


余談:「ヴィクトリア朝的服装表現」とメイド表現と

私の考察は以上となりますが、先ほどご紹介した船戸明里さんの日記に、「ヴィクトリア朝的とされた袖」について、メイドブームのヒントになるコメントがあります。




あの袖が日本の漫画アニメブームで流行ったのは、本物の「当時の資料」(資料を見て作られたものは映画も漫画も「当時の資料」にはなりません)抜きに「人の絵を見て描く」ことを繰り返した結果ではないでしょうか。



 コピー、孫コピー、ひ孫コピー、と複製されていつの間にか本物よりも本物らしく市民権得ちゃったみたいな。



めもちょう作画ミスについてより引用


船戸明里さんはヴィクトリア朝を昭和になぞらえていますが、まさに、昭和前期と末期がまったく違う生活レベル、文化でした。「ヴィクトリア朝」という時代も昭和と同じくらい続いていたわけで、前期と末期が同一なはずもありません。しかし、細分化していくと大変なわけで、情報量が膨大になります。何かを伝えていく上で情報が理解されやすい形で簡略化されていくのは必然です。話は逸れますが、その言葉は、資料を作っている私自身にも返ってきます。



メイド表現も「何が本物」であったかはさておき、表現が様々な手段で繰り返され、相互に参考にされる(イメージの相乗り)うちに、ブームとなっていったのだと思いますし、メイドブームを理解する上での難しさも、「この考察は、どの資料に依拠しているのか」が自分には分かりにくかったことにもあります。



そういう意味で、年代別・時代別のメイド服(表現、実在を問わず)をリスト化したいなぁと妄想していますし、それによってメイドを見る眼差しも見えてくるのではないかと思います。



この辺りは前回も取り上げましたが、『創られた伝統』が重なります。スコットランドの「古くからの伝統」と思える「部族によって異なるキルト」が、実は産業革命期に創られた新しい「伝統」に過ぎない(リンク先:BBCの講義)、というのです。


創られた伝統 (文化人類学叢書)

創られた伝統 (文化人類学叢書)





(2010/10/10:注:200年経過したものは「新しい」とはいえず、「伝統」と主観的に認識されるのではないかとの質問がありました。この点、おっしゃるとおりです。私の意図としては、「18世紀に『伝統』とされた出来事」=その時点では伝統ではないことが、200年後にあっては『伝統』となりつつも「200年よりさらに以前の古来からの出来事として認識される」ことがある、という意図で「新しい」と書きました)



キルトに限らず、日本でも観光資源として伝統が創られることは多くありますが、ブームを引き起こしたメイドは半世紀後の日本で語り継がれて、「日本の伝統」となっているでしょうか? 半世紀後の方が現在の諸作品を見たとき、「どうしてメイドがそこかしこに登場するのか」「日本はメイドが雇用されていたのか?」と誤解するのでしょうか。



さらにどうでもいい余談ですが、DVD版とBlu-ray版でクラリスの衣装が違うのはなぜでしょう。Blu-ray版は長袖、DVD版は半袖+手袋ですね。



ルパン三世「カリオストロの城」 [Blu-ray]

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ルパン三世 - カリオストロの城 [DVD]

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メイドブーム関連の知識のありか

以前、いろいろとメイドブームへの考察を重ねました。不完全にせよ、書くことで、正確な知識ある方からのコメントをいただけると思ったからです。さながら、自分が「メイドに詳しくない方に語られて、語ろう」と思ったように。



メイドブームの終焉は「衰退」か、「定着」か

補足・メイドブームの断続性と連続性を考える

メイドブーム関係の言及をしている理由

メイドブーム関連はひとまずここまでに



以前の一連のエントリで、有村さんが紹介した「メイドブームに関する記事」を取り上げましたが、幸いにもコラムの著者・森瀬繚さん(Moliceさん/クロノスケープ)から直接様々な情報をいただき、森瀬さんの記事(メイドとウェイトレス)、さらには森瀬さんが『殻の中の鳥』の製作者の方にしたインタビュー、また『動物化するポストモダン』で言及されていた「黒猫館」の情報源も見つけるなどして、いろいろと読み込んでいます。



結論から言えば、欲しい知識は森瀬さんの記事で十分な感じがしています。私が直感的に思っていたことが説明されていたり(屋敷から出て行ったメイド」)、メイドを題材としたゲームと主要な作品の年表も記されており、メイドブーム関連の言説は相当整理されています。



他に、別角度の視点、補完しあえる視点として、メイドスキーである方の意見を運良くウェブで見つけました。とても身近というか、同人活動で縁があり、様々な方と出会うきっかけをくださった貴島吉志さんがウェブで公開されていた対談記事です。2006年の公開時に読んだ記憶がありましたが、当時は私が理解できるレベルになかったので、今読み返すと、とてもわかりやすくメイドブームを描かれています。



観音王子×貴島吉志 メイド対談



ここでは上記の記事と重なる部分と異なる部分があって、両方を読むと、その当時の時代感覚が伝わってくるように思えますし、同人の部分の指摘も興味深いです。この辺りが分かっただけでも、勉強になりました。



後日、森瀬さんの記事については紹介したいと思います。


追記:2010/12/04

墨東公安委員会様により、某Y氏への私信(「メイド」喫茶取材方針に関する一提言)(2006/12/04)として、日本におけるメイドとメイド喫茶の展開について、十分な記述がありました。



こちら是非、ご参照ください。