ヴィクトリア朝と屋敷とメイドさん

家事使用人研究者の久我真樹のブログです。主に英国ヴィクトリア朝の屋敷と、そこで働くメイドや執事などを紹介します。

資料は何の為に集めるのか?

無から有は生み出せない、何かしら風景や知識の中から生み出される想像が、創作をしやすくします。「知らないものは書けない」、というのが久我のスタンスであり、だからこそ資料を追求しているわけですが、必ずしもそれが創作に直結しているわけではない、というのは現状を見ていただければ分かるかと……(資料探しが楽しくなってしまっている)



とはいえ、思うことは、資料探しは「作品に重厚感を与えたり、インスピレーションを得やすくする、分かりやすくする」為の手段です。決して、創作において「歴史」を書きたいわけではありません。資料そのままならば、歴史を書けばいいだけです。この辺り、本当にバランスですが、現代日本で日本人に伝わるように「創作」を書いているので、自分の創作を裏打ちする・そのような「雰囲気」を感じさせるために、資料研究があります。



・歴史的に正しいことだけを書きたければ、歴史書を書けばいい。

・想像し、筆者の独自の視点があればこそ、創作の面白さがある。



この辺り、ニュアンスが違うかもしれませんが、塩野七生先生は、著書『サイレントマイノリティ』の中で、森鴎外の言葉『歴史離れと歴史そのまま』というエッセイの中で話されています。『ローマ人の物語』が好きなのは、それが史実そのままを物語っているからではなく、登場する人物や、塩野さんが伝えようとする世界が好きだからであって、決して、厳密で完璧な歴史資料として求めているわけではありません。



今日、ある英書を見ていて、そこには「馬の手入れ」の方法が丁寧に書かれていました。それを訳している過程で、段々とその丁寧すぎる描写によって、自分がその作業をしているような、馬の匂いや、毛並み、そして温かい温度を、感じていく気になってきました。そういうふうに、経験の無いこと、見たことの無い視点を、ひとつずつ広げる上で、資料は重要です。だからといって、それだけが正解ではない、というところ、その行間にこそ面白さがあると思います。



資料に基づいて、けれど資料に縛られず、分かった上で、切り捨てる。

自分の知っていることがすべてではない、と思ったら調べる。



このバランスは難しいですが、創作である以上、歴史的に正しいよりも、まず面白さが無ければ、何か筆者が伝えたいと思う価値・魅力・美しさを伝えられなければ、筆者の個性は消えてしまうのではないかとも、思うのです。背景はあくまでも背景であって、料理をおいしくする調味料・器であり、食べて欲しい「料理そのもの」ではないのです。



なぜこの創作を始めたのか、目的を見失わないようにと、膨大に山積する資料に囲まれ、厳しい状況が続く解読のモチベーションを上げていく為の文章でした。毎回毎回、「部屋」の掃除ですね、試験前の。