ヴィクトリア朝と屋敷とメイドさん

家事使用人研究者の久我真樹のブログです。主に英国ヴィクトリア朝の屋敷と、そこで働くメイドや執事などを紹介します。

1960〜70年代の使用人研究ブームは屋敷の荒廃と表裏一体か?

そもそも、なんでイブリン・ウォーの本を読んだかと言えば。



使用人の歴史を勉強がてら、ちょうど今、1960〜70年代にイギリスでなぜ使用人の資料本が数多く誕生したのか、外堀を埋めている最中です。ある方に、イブリン・ウォーの影響も若干あったのではないかと示唆されましたので、人に聞く前に自分でも知っておかなければならないと、同書に手を広げた次第です。



ちょうど今、新訳で『回想のブライズヘッド』(Brideshead Rivisite)が出ていますね。



回想のブライズヘッド〈上〉 (岩波文庫)

回想のブライズヘッド〈上〉 (岩波文庫)





映画も去年作られたようですが、過去のドラマに比べるといまひとつのようです。



情愛と友情 [DVD]

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久我が屋敷研究を始めた際に『図説 英国貴族の城館』を読み、そこで取り上げられたドラマが『Brideshead Rivisite』でした。こちらはカースル・ハワード最高な雰囲気です。久我はアメリカ版を買ってしまいましたが、今はイギリス版も出ています。







話が逸れまくりです。



イブリン・ウォー以外の観点で、他に視点を探したところ、過去に購入していた『英国カントリーハウス物語』を思い出しました。



これを読み直すと、1945〜1955年の間に、400ものカントリーハウスが取り壊されたとあります。相続税や経済情勢の変化で、屋敷を手放さざるを得なかったのです。こうした背景を踏まえると、その見直し・文化の維持というのが反動で生じ、屋敷の保護や屋敷で働いていた人たちに注目が集まった、のかもしれません。







国が最も豊かだった時期の象徴である屋敷が壊されていった現実、ウォーと言う文学者の存在、大戦後の復興が落ち着いた時期、或いは『Upstairs Downstairs』が社会背景に関係せず作られて、その存在感が賛否両論を巻き起こしたのか?



まだ見えていない視点が多いので、仮説を構築しつつ、答えを知っていそうな方々にアプローチするつもりです。


※2009/05/04注



『回想のブライズヘッド(上)』のウォーによる前書きを読んだところ、初版刊行時の1944年と、改訂した1959年当時の「屋敷に対する空気の違い」を述べるコメントが出ていました。



1944年には「現在のように(1959年)」カントリーハウスを礼賛する風潮は予想できなかった、と記されていますので、やはりその頃に、時代の変化があったようです。



あと、手元にNational Trustが入手していった屋敷の年代別リストがあるので、そこで取得数をカウントしてみようかと。


なぜ執事はデキャンタにワインを入れるのか?

イーヴリン・ウォー (現代英米文学セミナー双書 (19))

イーヴリン・ウォー (現代英米文学セミナー双書 (19))





最近の乱読具合はひどく、ここで取り上げている興味の幅が、どれだけ散在しているのか、と思われるかもしれません。執事の手記を読んでいたかと思えば、イギリスのDVDを見て、ガーデナーの話になり、今度はイブリン・ウォーです。イギリス文学です。



その中で興味深いことが2つありました。



ひとつは以前読んだ本に出てきたNancy Mitfordとウォーとの関わり。1955年に上流階級とそうでない階級の言葉の使い方に関する論文(Uとnon-U)をNancyは紹介し、ウォーが反論し、センセーションを巻き起こしたと言うのです。(上記の書P.20−23に依拠)



Nancyは貴族であるMitford家の娘で、この六人姉妹はヨーロッパで最も有名な姉妹でした。末の娘が現在のDevonshire公爵夫人です。そのエピソードはwikiか、以下の本で。



http://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Mitford



ミットフォード家の娘たち―英国貴族美しき六姉妹の物語

ミットフォード家の娘たち―英国貴族美しき六姉妹の物語





そもそもMitfordのご先祖は幕末/明治の日本にも来ていたり、六姉妹の中の唯一の男子Thomasは日本との戦争で亡くなったりと日本とも関連がある一族です。



ミットフォード日本日記 (講談社学術文庫)

ミットフォード日本日記 (講談社学術文庫)





話が逸れましたが、タイトルの件は、この言葉の使い方のエピソードの中、著者である小池滋先生の言葉として出てきます。専門の研究をされている方にとっての常識が、違う関心領域の人間にとっては未知でした。



なぜ執事がデキャンタを使うのか?



裏返せば、なぜ、主人たちは執事にデキャンタを使わせたのか?




お客が来た時、食事に輸入もの,例えば上等のものはフランス産のBurgandy(Bourgogne産)かClaret(Bourdeau産の赤)などを出すが,ラベルを見せびらかすようにして壜のままテーブルに出すのは成上がりのやることだと軽蔑して、わざとデカンターに移したものを出すのが礼儀である。本来デカンターでワインを出すのは,フランスの家庭での食事とか,町の庶民レストランで銘柄などを問題にせず安い土地の酒を出す時の習慣である。つまり、安酒のように見せかけて最上等のワインを客に出すところに,上流階級の奥ゆかしさ,ないし裏返しの傲慢さが見られるのだ。



『現代英米文学セミナー双書19 EVERYN WAUGH 小池滋編著 P.22より引用


とのことで、使用人のマニュアルだけを見ていたら、わからないことです。ただ、もうひとつ可能性として考えられるのが、「執事」(この場合はButler)の由来です。Butlerはフランス語のbouteille(bottle)の言葉を名前の由来とし、ワインを扱う職種として最初は登場しています。



http://en.wikipedia.org/wiki/Butler



フランス貴族がどうしていたかはわかりませんが、その点では、フランスの流儀を持ち込んだのかもしれません。



或いは、デキャンタに入れた方が「管理」が楽だったのでしょうか? 飲み終わらず、デキャンタに残されたワインの行方は不明ですし、管理方法がマニュアルには載っていないので、執事の役得になっていたのかもしれませんが。



というところで、他の本を読んでいて、別のことを学ぶ、という事例が続きました。絶えず、興味の幅を広く持ちたいところです。


理由の補足

デキャンタを使う理由について指摘を受けたので情報を追加します。本来的にはマニュアルに作業内容も書いてありましたが(忘れていました)、「古いワインに生じる澱を濾過して取り除く為(布を使って濾過する描写あり)」と、「古いワインに固有の匂いを飛ばす為」というものもあります。


最高の執事としての条件再び

過去に、幾つか、執事関係で考察をしました。



『日の名残』、或いは「上級使用人・執事」補遺

百年前の執事から学ぶマネジメント



考察自体は同人誌(総集編)の解説「執事」で完成させましたが、他にも再考の執事に必要な要件が必要だったのではないか、と思うことがありました。



最近、以前買った執事の本も完全な形でようやく読み終わりました。前回は普通に読み、今回は執事の人格と向き合う為、細部まで読み込みました。細部まで読んだおかげで、これまで弱かった「Shooting」「Hunting」「Fishing」「Valet」に関する知識も、高まりました。



家族を持った執事の生涯



感想自体は前回書いていますが、執事としての能力を発揮するには、自分の才能だけではなく、如何に「いい主人(安定して「働き続けられる」職場)を見つけて能力を発揮する機会を得るかにもかかっているのではないか、と思いました。



今回の手記の人物は手記から伝わる視点、表現される言葉からすると、今まで出会った中で最も質が高いのですが、その不幸さゆえにトーンが暗くなっています。一方、明らかに「運」よくいい主人に出会った別の執事の本は、資料性があっても、本から伝わる人格はあまり好きになれませんし、「漫遊記」的なものです。



何よりも、この執事は「六フィート」ありませんでした。もしも彼が六フィートあれば、もっと一流の仕事に恵まれたかも知れず(そうなっていたら手記は書かれなかったのでしょうが)、そうした本人ではどうしようもない部分で評価される点について、シニカルにもなったのでしょう。



そこで浮かぶのが、Astor家の執事たちです。彼らは比較的成功した部類に挙げられます。それは主人の一族が裕福で、また親類縁者も多かったからではないでしょうか? 一箇所で評価を上げれば、その血縁の中で転職が出来るのです。



会社と違い、一族が繁栄を続ける限り、子孫は増え、「職場」も増えます。(会社も繁栄し続ければポストが増えたり、機会も増えたりしますが) 血縁が続く限りにおいて、また有能である限りにおいて、執事としての仕事は絶えません。少なくとも生きている間、2代に仕えられれば、十分ではないでしょうか?



不幸な目に遭った執事は、「子供がいない主人の死」で、最高の職場を失います。後継者はお金に不自由した遠縁の人間で、使用人の使い方もお金の使い方も知りませんでした。「子供がいる」屋敷は「後継者を知る機会」がありますし、親子の仲がよければ、少なくとも親と同じ基準で使用人を使ってくれもするでしょう。



第一次世界大戦や、相続税の問題によって、貴族の財産維持自体が難しくなって、職場が崩壊していくリスクもありましたが、少なくともこの不幸な執事が生きる時代(ヴィクトリア朝後期〜第一次大戦後)では、上記選択はリスクを下げられる、と思います。



Edwin Leeはこれまで久我が出会ってきた執事の中でも最高の「視点」を持っていました。しかしそれは、主人があってこそ、です。Astor家に所属したが故に、Lordと呼ばれるほどに主人の信頼を受け、機会に恵まれ、能力を発揮できた部分は忘れてはなりません。



パイロットとしての腕がよくても、良いモビルスーツに恵まれないと、勝ち「続けられない」のです。Ernest Kingのように「エリザベス王女の執事」になっても(最高の機会を得ても)、失言で解雇される場合もあるので、両方必要なのですが。



こうした執事は、あくまでも「手記を書いた」という氷山の一角に過ぎず、まだ見ぬ未知の執事がイギリスの歴史の中には埋もれているのでしょう、ってどんな強引な終わらせ方だと思いつつ、そういう人に出会ってみたいものです。



ただ、残念ながら、いまだに「有能なハウスキーパー」には出会っていません。描写されることが少なく、手記すらも見つからない彼女たちの言葉を、なんとか集めたいものです。


ヴィクトリア朝の貴族の両親は冷たかったのか?(21:00)

資料を読んでいて面白いと思うのは、研究者によって視点が違うことです。研究者にも何種類かあり、書いた人が大学の先生かジャーナリストかでも違ってきます。



今日読んでいた資料本は「ナニー」の資料の裏づけの為でした。曰く、ヴィクトリア朝の両親は子供を好きではなかった。曰く、父親は子供と会うのが年一年(比喩ですが)、母親は一日一時間で、その時間はだいたい夕方の五時からで、ディナーの前に子供はナースメイドによって着替えさせられ、母と時間を過ごしたと。



しかし、今日読んだ本では別の視点で様々な情報が提供されています。その中で面白かったのは、「忙しかったのは働いている父親であって、領主である貴族たちは彼らほど家を不在にしなかった」「貴族の家族はもっと仲が良かった」と、手記や残された手紙などから立証しようとしているのです。



世にインパクトを与える研究書があったとしても、それはインパクトを与えるが故に極論をかざすこともあります。またそれを鵜呑みにすると、ステレオタイプに飲み込まれる場合があります。



久我は考えも無く、「ヴィクトリア朝の両親は子供と過ごさなかった」という知識を前提にナニーの仕事を読んでいましたが、この筆者によればナニーに育児を手伝ってもらっていても、育児そのものを手放さず、子供を愛した親も多い、という点です。



むしろ、そうした距離感は「働かざるを得なかった中流階級」にこそあった、との指摘は、現代日本でも言えるのではないでしょうか?



平日は働き、土日はぐったりして家で寝転ぶ、というステレオタイプが日本の会社員にはありますが、ヴィクトリア朝の「働く人たち」も、似たような状況だったかもしれないのです。



自分自身で直接原文は読んでいませんが、1983年のアメリカの平均的な妻が、学校に行く前の年齢の子供の育児に費やす時間は10分以下との研究結果があったそうです。「1時間だとしても、現代の子供より時間を費やしてもらっている」と、筆者は指摘しています。



ヴィクトリア朝の子供は可哀想、親と一時間しか会えなかったんだ」と言う前に、現代の自分たちを顧みる、というのはなかなか面白い体験でした。



今回、ナニー系の話を書きますが、両親との関係性におけるナニーの立ち居地、と言う観点も必要であると認識しています。今時点では資料が足りないかもしれないので、ひとまず有名であるが故に圧倒的な影響力を持つエピソードに振り回されないよう、しかし、他の観点での裏づけが無いかも、チェックすることにします。



特に、有名なエピソードがいつの時代なのかも重要です。筆者によれば一九世紀前半には確かに厳しく重苦しい躾が存在したのも事実ですが、時代を経るに従って自由になっていった、とも記されています。同じ英国貴族のエピソードでも、どの時期を取り上げ、誰の言葉を採用するかでも違ってくるのです。



今回読んだ資料では「ヴィクトリア朝の規律/時代の雰囲気によって、両親は子供から切り離されている」との立場が感じられます。「貴族が自身の遊興で忙しく、子供に構っていられないから育児を任せたし、会おうとしなかった」という通念的なものと、異なる視点です。



結果としては一緒かもしれませんが、ヴィクトリア朝の建築家の思想「一つの部屋は一つの機能」(ピュージンでしたか?)も、子供と両親を切り離す建物の設計をした、というような話もあり、随分と勉強になりました。



勿論、ここで読んだものがすべて正しいとは思いません。しかし、幾つか腑に落ちなかったことへの疑問が解消したのは確かです。



情報処理に追われて、何も進みませんでしたが、資料を作る立場としては集中して本を読み、考察を深められたので有意義でした。問いがあるのか、無いのか、それが資料本として最も重要なことだと思います。久しぶりに、よい疑問に遭遇しました。


屋敷と言う経済圏(07:40)

昨日の日記を書いてから、資料の読解に移行しました。ランド・スチュワードの根幹を成す要素は把握できましたが、同時に、ハウス・スチュワードに対する考察が甘すぎることも気づきました。今回執事の項目にまとめようとしましたが、それだけでは足りませんでした。



屋敷の一部を改修したいとき。



屋敷の屋根が水漏れしそうなぐらい痛んでいたとき(アデーレが発見したような)



キッチンのレンジを最新式のものへ入れ替えるとき



これらを統括するのがハウス・スチュワードです。資材を調達するのも、大工や配管工をアサインして作業をさせるのも、ハウス・スチュワードの仕事です。ハウスキーパーやコックは「屋敷の環境の中で、資材を調達する」役目でしたが、「屋敷と言う環境そのもの」を改変できたのは、ただ執事(スチュワード)だけなのです。



この着想は、ランド・スチュワードから得ました。ランド・スチュワードは屋敷ではなく、領地全体をマネジメントしました。構図としては大体同じで、生産地と生産する人員の確保がその役目でした。メンテナンスの為に、優秀な技術者をスカウトすることもありました。



最近見たBBCドラマにもヒントがありました。『Lark Rise to Candleford』のヒロインの父親も優秀な石工で領地を支配するティモシー卿にスカウトされました。同様に、ティモシー卿の屋敷の門の作成を依頼されたのは、村の鍛冶屋です。屋敷には不断のメンテナンスが必要であることから、村人と屋敷は繋がっていました。



では生産力を有する貴族の領地は儲かっていたのか? 『英国貴族と近代 持続する統治1640-1880』によると、直轄経営のほとんどは収益的に赤字だったそうです。地元以外の領地や地代のみの徴収、投資収益などの他の収入源から割り当てていたそうです。



しかし、贅沢な暮らしや「領民の暮らしを支える仕事」を作る点において、貴族や上流階級による領地の経営はあながち「マイナス効果」だけではなかったと考えられます。また、現在のデボンシャー公爵家はブランド化して、農場経営を成功させて収益を上げていると、聞き及んでいます。



政治関係の本だけでは生活の資料は見えず、生活の観点の本からだけでは全体での収益構造に想いが及ばず(家畜部門での収支資料、といったセクションごとのデータは残っています)。相互補完できるのがなかなか面白いです。



儲かっているのか、いないのか?



複雑な要因を数値化し、可視化してコントロールするのが、スチュワード最初の仕事です。






ハウスキーパーがなぜ保存食を作ったか?(12:10)

ハウスキーパーの締めくくりに入りました。解説部分で疲れ果てましたが、スチュワードも控えているので手を抜けません。「後で翻訳すればいいや」と骨組みを作ってきましたが、その後がもう無いので、不退転の覚悟で一個ずつ潰しています。



個人的に面白かったのは、「どうしてコックではなく、ハウスキーパーが保存食を作るか」という問いに対する答えらしきものを見つけたことでしょうか? ひとつには熱と蒸気が篭るキッチンはその作業に向かない、だからハウスキーパーの管轄にあるスティルルーム(蒸留室)で作業した、との回答がありますが、納得は出来ませんでした。



コックがキッチン以外で作業すれば済むことのように思えるからです。



そこでいろいろな本を見ていくと、ハウスキーパーの仕事には「旬の食材を把握する」ことも含まれるのに気づきました。現代のように流通が発達せず、冷蔵や冷凍技術も低かったヴィクトリア朝においては、旬を逃せば、その食材を入手するのは困難でした。ハウスキーパーは旬の食材を調達すると同時に、「旬の時期を過ぎた食材も使えるように」、保存食を作る役目を担ったのではないか、というのが久我の結論です。



以前読んだ本(確か『イギリス手作りの生活誌』?)では、「冬の間に食べさせるエサが無い」と言う理由で、飼っている豚を殺し、保存が効くベーコンにしたとありました。こういう観点で屋敷の流通を見るのは、面白いです。



その辺りは、スチュワードの項目でより深めようと思います。


ハウスキーパーはなぜ鍵束をぶら下げているのか?

今回コミティア83ではお隣の方が北欧神話の創作をされている方で、いろいろと興味深い話を伺いました。



女神転生』やTRPGをやっていたことで「ロキ」「オーディン」など少しは知っていますが、名前ぐらいです。たとえばそれが「文字」として伝わったのか、「口伝」で伝わったのか、いつぐらいに生まれたのかなど、まったく知りませんでした。



西洋史を授業で受けていませんし、自分の興味範囲も古代ローマか、中世か、ヴィクトリア朝か、というレベルなのですが、北欧の国々の歴史や神話、「エッダ」や「サガ」について教わりました。



また、お話していてひとつ面白い指摘を受けました。



ハウスキーパーが権威の象徴として鍵をぶら下げていると昨日のブログで書きましたが、北欧神話でも「家の女主人が様々な鍵をぶら下げている」と言う話があるそうなのです。フランス/グリム童話「青髭」でも、「妻に信頼の証として、青髭が鍵を渡す」箇所があると指摘され、鍵に何かしら込められているのではないかとも。



久我は「ハウスキーパー→鍵をぶら下げている」を鵜呑みにしていましたが、確かに、「なぜぶら下げていなければならないのか?」を考えたことはありませんでした。「鍵束をぶら下げる・鍵が権威になる」という着想は、どこから登場したのでしょうか? こうした習慣がいつ起こったのか、触れている資料本には出会ったことがありません。(看守だと夢が無いですが)



ヨーロッパでは共通認識として当たり前なのかもしれませんが(他の時代の歴史を勉強していれば出てくる?)、女性であるハウスキーパーが登場して権威を持ち始めたのは少なくとも17世紀後半か、18世紀以降だと思いますので、その頃からでしょうか?



たとえば「スティルルーム」という蒸留室で過去に女主人が薬草や薔薇を蒸留して香水や薬を作っていたのをハウスキーパー(スティルルーム・メイド)が引き継いだように、どこかのタイミングで女主人か、近代にいた代理人(貴族の領地代理人・家政の責任者・家臣に近い)から、その役割を継いだのではないかと思います。



そういえば、屋敷の案内もハウスキーパーはしています。普段、屋敷で使っていない部屋には「鍵」を掛けることもありました。主人が倫敦の屋敷(タウンハウス)に滞在する折も、ハウスキーパーは領地の屋敷(カントリーハウス)を守りました。



食料保管庫や陶器室など、様々な貴重品を管理する部屋の鍵を預かっているので、ぶら下げた方が単純に使い勝手がいいからなのかもしれませんが、同じような立場にいる執事にこうしたエピソードはありませんね。映画『秘密の花園』で、ハウスキーパーのメドロック夫人はぶら下げた鍵束を使っていました。



「すぐ使えるように」という観点、あるかもしれません。



というふうに、まったく違うジャンルなのですが、同じヨーロッパ、そして過去の時代・文化を題材にしている点で、重なり合うものや今まで気づかないものを学べたことに、感銘を受けました。



こちらの同人誌にも関心を示していただけましたので、ヴィクトリア朝や屋敷の魅力にも目覚めていただければ(笑) そういえば昔、ケルト神話ギリシャ神話の本をかなり読んでいました(新紀元社やちくま)。



最近、それに繋がるものといえば『Fate』……