ヴィクトリア朝と屋敷とメイドさん

家事使用人研究者の久我真樹のブログです。主に英国ヴィクトリア朝の屋敷と、そこで働くメイドや執事などを紹介します。

ヴィクトリア朝メイド資料を作りつつも創作をしていることを考える

『帝國メイド倶楽部』に参加できなかったから、というわけでもないですが、久々に時間が出来たのでネットを巡回していました。



同じく参加できなかった墨東公安委員会様のブログにて、このところ興味深いエントリが続いていたので、参加することにしました。



ヴィクトリア朝メイドさん界隈の同人活動や研究において、現時点でアクティブなサークルは本当に限られております。そんな中、資料の翻訳を行っている墨東公安委員会様のブログにて、当サークルについての言及があり、いろいろと考える機会がありましたが、そこからもう少し進めてみようと思います。



新春メイドさん放談2007

酒井翁再び立つ・完結編

わたしのリコネクションズ〜メイド・非モテ・倒錯の偶像・高山宏など

妄想の対象としての「メイド」について思うことなど(1)

妄想の対象としての「メイド」について思うことなど(2)

妄想の対象としての「メイド」について思うことなど(3)



以上、墨東公安委員会様/ブログ『筆不精者の雑彙』



元々議論が得意ではなく、何かを論じるよりはまず調べることが先にあると思っていたり、また同人活動に当たって「好き嫌いのある議論/観念ではなく、誰もが面白い・得したと思える事実を届けたい」と考えていたりもするので、ある意味当事者でありながら、議論に参加せず、申し訳ないです。



また、受け止められたものがすべてであり、ただそれを書いたものは受け止めればいい、と考えています。



とはいえ、こうした機会に自分自身の立場を考えるのは面白く、また有意義なので、ここで書くことが墨東公安委員会様にとって、何かしら参考になれば幸いです。



注:下記にある文章は必ず一連の流れを墨東公安委員会様のブログにて確認してからお読み下さい。あくまでも私信としての内容で、これを単体で読んでもわからない内容です。


推移

久我は対談において、このように登場します。




墨東■実はいまメイドサークルで同人誌を定期的に買っているのはSPQRさんと震空館さんだけだったりするんですけど、どちらも貴族のほうに注目してる感じかするんで。私はどちらかというと中産階級に注目したいなと思ってるんですが。



酒井■SPQR▼で思い出しましたけど、久我さんの本を読んでて一番ショックだったのは、あんだけ物凄く調べてる人でも、創作では妄想の「メイドさん」を書いちゃうんだなっていう。



墨東■それは私もそう思います。あれだけの考証を必ずしも活かしてないですよね。細部では活かしていても、社会構造的なところには案外そうでもないような。



酒井■で、あれだけ調べて実態がわかってる筈の人でもメイドさんっていう妄想からは逃れられないんだなってちょっと思ったんですよ。



墨東■いやそうだと思います。まったくその通り。



酒井■調べてもみんな捨てないですよね。メイドさんっていう妄想を。



墨東■調べる人もあんまりいないんですけどね。妄想が晴れるとわかってるから調べないんですかね。そうやって人の妄想に突っ込むのが楽しい、というのは捻くれているか(笑)。



新春メイドさん放談2007:敬称略



資料を丹念に調べていくサークルほど、「妄想」(創作)に関心を抱いていくのはなぜか、と言う問いかけです。で、その辺り無自覚でしたので、良い機会だと考え、次のように書き込みました。




自分が言及されているのは気恥ずかしくもありますが、資料を調べれば調べるほど、妄想的な道へ傾く理由を考えてみました。



資料を作る作業は「果物・野菜」を育てるのと似ています。

時間をかけてもいいものが出来るかわかりませんが、

時間をかけなければ、いいものには出会えません。



最初の頃は収穫した果物を「食べやすいように」と皮をむくレベルかもしれませんが、次第にジャムにしたり、パイを焼いたりと、段々「そのものの姿」から離れていくイメージですかね?



本物の素材に接すればこそ料理したくなる、それだけだと思います。



また、言及されていた箇所について、僕個人は学問的視点に興味は無く、生きていた温度を、実際に残された彼女たち、或いは彼らの声から感じられればいいと思っています。



貴族的なものへ熱い視線を注ぐのも、屋敷や男性使用人、或いはメイドの多様な職種が語れないのが大きいです。



事実を丁寧に調べようとしながらも、妄想に行き着いた現在の矛盾というのは面白いですが(笑)



それに対して、次のようなレスをいただきました。




 鼎談ではどうもないものねだりのような発言をしてしまったかと後で思いましたが、率直なご意見が伺えて大変光栄です。小生としては、時代も場所も違う人々のことを理解するには、「学問的」なことが重要だと思っておりますが、それだけに久我様とのものの見方の違いを面白く感じました。久我様はTRPGをされる方だったと思いますが、小生はウォーゲームが好きです。案外こういうところに、ものの見方から来る好みの差があるのかな、なんて思います。
 今後とも宜しくお願い致します。出来ればその「矛盾」について、いつかお伺いできれば。
わたしのリコネクションズ〜メイド・非モテ・倒錯の偶像・高山宏など



そこから、「制服学部メイドさん学科」で、久我にとっては大先輩とも言える鏡塵さま(『COUNTRY HOUSE LIFE』や幾つかの英書の紹介を同人誌上で行っており、心の師匠です)が、自身のブログの中で、「これがWNF(ワールドネコミミフェデレーション)のやり方か――!?」で、「創作と妄想」について言及されました。



随分と遅れての参加となりますし、自分自身の話しか出来ませんが、創作に関して言えば、メイドへのアプローチ手法なのではないかと思います。



では、本題です。


資料研究における「仮説/実験場」としての「創作」の役割

資料を調べれば調べるほど、妄想に陥る矛盾。結論から言えば、これは「資料という強力な光を過去のメイドに当て続ける」ことで生まれる「必然」なのではないかと思うのです。



光を当てれば、影が生まれます。その見えない部分を知りたいと思いますし、そうした「今の手元の資料に無い」部分を、自身の「妄想」で埋めていくのではないかと。



そうして資料だけではなく、自分自身の視点で光を当てることを考えること、メイドを頭の中で妄想して動かしていく結果が表現にもなりますが、同時に、新しい視点も出てきます。



「こう書きたいけど、こういう資料ってあったっけ?」



元々、膨大なテキストを読んでいるので、必ずしも読んだ時点ですべての情報は入らず、そのときの興味だけで目を通しています。そうした読み落としたことを振り返る機会、或いは、新しい資料を求める機会が、創作の役割なのではないかと。



実験の場、と言えるかもしれません。



「資料に基づいてメイド創作をしながらも、そのメイド創作において生じた疑問・新視点を解消・検証するために、再度、別角度の資料を探す」ことが行われている。



創作は「表現」でもあり、また「仮説の創出・検証の機会」にもなっており、終着点でありつつも、「原点」に立ち戻り、絶え間ない循環を繰り返していると。


その創作において「歴史考証」をしない「メイドもの」と差異が無いこと


で、ここの場合は、小生の感想ではどうもあれだけ歴史考証をしても、創作は歴史的考証をあまりしないような多くの「メイド」ものとの差異をそれほど大きくは見出せないように感じており、それが小生をして些か「ショック」だったのでありました。



妄想の対象としての「メイド」について思うことなど(2)

これは創作を歴史考証を示す場として認識していないことにもあるかもしれません。あとがきでも時々書いていますが、歴史的事実は尊重しつつ、雰囲気を最優先しています。



歴史や考証は資料パートで提示しており、解説と小説とは補完的な関係にあります。創作は創作として切り離されたものではなく、また歴史的な考証を織り込むぐらいならば、「それって資料パートに書いてあるよ」で済む話、と自分の中で思っています。



上記の引用箇所で、『社会構造的なところには案外そうでもないような』と書かれておりますが、ここについては意図的に書いていませんので、読み取れないと思います。



そうした視点での研究をほとんどせず、詳しくないことは書けませんので、レスでいただいた

「学問的」なことが重要だと思っておりますが、それだけに久我様とのものの見方の違いを面白く感じました。久我様はTRPGをされる方だったと思いますが、小生はウォーゲームが好きです。案外こういうところに、ものの見方から来る好みの差があるのかな、なんて思います。



社会全体を含めてフォーカスする学問的なアプローチを放棄し、あくまでも「生活した個人」に視点を向けているところが、ご指摘のように、差異の根幹だとも考えます。SLGTRPGの差異、確かに言い得て妙です。



社会構造にまで踏み出すと、自分が好きな「個人」へのフォーカスに時間を使えなくなります。まだまだ、「個人」を扱いきれていません。逆に、だからこそ「社会構造」的な話となる、「二十世紀における使用人世界の終焉」の資料が手元に少なく、またなかなか進まないのでしょうね……



結論としては、創作で作られるものは、確かに、『歴史的考証をあまりしないような多くの「メイド」ものとの差異』が無い、とのご指摘は当たっていると思います。


「妄想」している部分=現代日本でメイドを書く意味


「新春メイドさん放談」中で出てきた久我さまの場合については、むしろ逆に意識的に「創作家」たらんとされていて、それが膨大かつ精緻なその考証と必ずしもうまく接合されていないのではないか、僭越ながらそのように感じたところが、「ショック」の意味であると思っています。そして、それだけ「メイド」というものがかき立てる「妄想」が強固であることの傍証なのであろうと思うのでした。


妄想の対象としての「メイド」について思うことなど(2)



確かに、創作と資料の不整合は感じます。そこは残念ながら現在の実力なのですが、「接合」仕切れていないこと、そこが「創作で提示される仮説への疑念」か、「技量によって伝えきれていない」のか、今回の文章で明確になったでしょうか?



今回表明した「妄想」の根幹に賛同しえるものが無ければ「視点への違和感」でどうしようもなく、「視点がわかった」ならば「伝えきれない技量の未熟」になり、それはごめんなさい(笑)、精進中です。



「考証」ではなく、自覚的に「妄想」している部分もあります。これは趣向に属しますが、「多くの人に、当時のメイドの実態に興味を持って欲しい」と考えて、そのわかりやすい手段として、「働くメイド=会社員」という視点を作っています。



それが、「現代と百年前との連続」になるのでしょうか。読者のほとんどが社会で働いている点で、職場で働いた過去のメイドと読者との間に重なりがあることを示し、イメージとしての「クラシカルメイド」ではなく、同じ立場の人間である、「社会人として同じ悩みを抱えていた」という近しさを感じて欲しいと考えています。



自分自身、転職経験がそこそこあることで当時のメイドとの重なりを感じたり、また管理職を経験することで、上級使用人に対する視点も変わったりするなど(上級使用人を描いた五年前と現在とはまったく視点が変わりました)、「会社員として働き、職場で生きること」と「メイド(メイドに限らず執事やハウスキーパー含む使用人)を学ぶこと」は、一致します。



現代日本で(国も違うし、別に先祖でもない)ヴィクトリア朝メイドをあえて創作する意味は、その辺りにあると思います。ただ好きならば、歴史や考察で済みます。そこから史実に無いことを考えたり、勝手に動かしてみることは、何かしら現代との「連続」を見出そうとする「仮説」になるのではないでしょうか。



その気持ちよさに引っ張られて、「創作」へとシフトしてしまっているかなとも、感じる次第です。



結局、時代考証を創作で表現するぐらいならば、解説を選んでしまいます。小説において、考証を再現する必要を認めていない、繰り返しとなりますが、『解説できる場所を創作以外に持っている』、これは大きいです。



実在のメイドを創作で描く必要は無く、それは実在のメイドの言葉を伝えれば済む話です。資料を学び、深めることでリアルの重さや魅力を知ればこそ、そのリアルに立ち向かう気持ちは無くなります。



それが、創作において「同時代の価値の再現」ではなく、同時代にあったかもしれないし無かったかもしれない価値・視点の創出、「妄想」へと繋がっていくのでしょう。



要約すると。



1:生活視点を優先し、社会構造は書いていないし、他の人に任せている。

2:創作は考証と表裏一体、新しい考証の仮説にもなる。

3:創作は時代考証の場ではない。考証は資料パートで十分。

4:現代日本であえて「創作」メイドを描くならば、描く理由・独自の視点が必要。

5:但し、資料パートなくして創作は描けず。



こうして振り返ると、「創作と解説」がセットになっている同人誌、という特性がわかりにくさを生んでいるかもしれません。表現手段を「解説」「創作」と二つ持っているのが、混乱を招くのかと。



というところで、以前、いただいていた『出来ればその「矛盾」について、いつかお伺いできれば。』という問いかけへの回答になりましたでしょうか?



また何か読み取れるところや差異などあれば、ご指摘下さい。今回はまた勉強になりました。ありがとうございます。



余談ですが、森鴎外の「歴史そのままと歴史ばなれ」も、こうした「歴史と創作」に関する観点に加わってくるでしょうか? 塩野七生さんのコラムで読んだレベルの知識しかないですが……



正直なところ、今後扱うであろう「メイド世界の終焉」は社会構造的な観点が非常に強くなるので、墨東公安委員会様とご一緒に作ってみたい、と思ってもいます。以前書かれていたこの辺りの資料の翻訳、期待しております。


おまけ:『メイド』の多様性

ちなみに、久我は「ヴィクトリア朝メイド」を異常なぐらい追及している関係上、よく誤解されますが、「クラシックメイド原理主義者」ではありません。(これはこのブログの読者の方向けの言葉です)



そんな「メイド」を巡る種々の妄想が渦巻くこのご時世に「日本メイド協会」なんてのが設立されたのは、種々の妄想のなかでの「正統性」を確保することで、向後の「メイド」を巡る商業的シーンにおいて優越的な地位を獲得しようという戦略なのでしょうか。小生は、「メイド」のここまでの発展の強みは、様々な妄想を幅広く受け入れてきたことにあると思いますので、正統性争いは長期的には「終わりの始まり」ではないかと思わなくもありません。
妄想の対象としての「メイド」について思うことなど(1)


その点では、墨東公安委員会様が書かれている、今回のエントリには共感するものがあり、多様性こそが「メイド」がジャンルとして成立した土壌だとも思うわけです。



なんでこんなことを書いたかと言うと、正当性を求めようとすること、『正統性争いは長期的には「終わりの始まり」ではないかと思わなくもありません。』と書かれている点について、不思議な重なりを感じたからです。



まったくの別経由ですが、久我が今年3月に書いた『MANOR HOUSE』は、ヴィクトリア朝/クラシカルメイドの「高速道路」というコラムにて、同じ「終わりの始まり」という言葉に行き当たっています。内容的に重なるところが少ないですが、結論として『日本におけるメイドの「終わりの始まり」の可能性』へ到達したこと自体に、面白さを感じる次第です。


最後に

小難しく書きましたが、最終的には、“だって描きたかったんだもーん”に通じます。はい。