ヴィクトリア朝と屋敷とメイドさん

家事使用人研究者の久我真樹のブログです。主に英国ヴィクトリア朝の屋敷と、そこで働くメイドや執事などを紹介します。

『英國戀物語エマ』第三話

作品の中に織り込まれたヴィクトリア朝的な描写や要素についての解説などを行います。



今回も原作を大事に、少しコリンや家族の比重を高めつつ、丁寧にロンドンの街並み(タワー・ブリッジ、エロスの像、リージェンシー・ストリート?)を描いていました。原作のテンポを保ち、本当にいい仕事をしています。



描写の解説面で説明の都合上、描き方に踏み込んでおります。まだ見ていない方はネタばれになるかもしれませんので、ここから先は読まないようにお願いいたします。



アイロン

有名な話ですが、当時、インクを乾かす為に、執事やメイドは届いたばかりの新聞にアイロンを掛けていました。主人の手にインクがつかないようにする、というのですが、実際のところ、インクがアイロンでにじんだりしなかったのか、興味深いところです。



今回、『エマ』の中で描かれていたのは、朝の光景です。この部屋でメイドがアイロンを掛けていたり、リネンを運んでいたので、いわゆるリネン室かアイロン室、だったのでしょう。



当時のアイロンには種類が幾つもありますが、例えば「中に石炭を入れる」ものや、「鉄製のストーブに載せておき、分厚い鉄や中の金属を暖め、その熱を利用する」など、いろいろなアイロンがあります。以前、『なんでも鑑定団』にこのイギリスの古いアイロンを持ち込んだ人がいましたが、残念ながら、数が多すぎ、骨董的な価値は無いそうです。



また、1970年代の使用人ドラマ『Upstairs Downstairs』や、19世紀の暮らしを再現した『THE 1900 HOUSE』のいずれの映像でも、メイドさんは「唾」を飛ばして、アイロンの温度を確かめていました。そのまま服にアイロンを掛けていましたが……



二種類の階段:表階段と裏階段

屋敷には二種類の階段が存在しています。ひとつは主人たちが使用する階段。こちらは豪奢で絨毯が敷かれ、主人たちは自由に往来します。その一方、使用人が使用することは原則的に許されませんでした。



使用人たちがどこを使っていたか、それが裏階段です。裏階段は表の階段とは幾つも異なっています。非常に急であり、狭く、床も絨毯で覆われてはいません。



ここでは、第一に主人たちが使う水、お湯や石炭を運ぶのに使ったり、洗面した水やチェインバーポット(おまる)などを持ち出すのに使用しました。そうしたモノを運んでいる姿を主人たちに見せるわけにはいかなかったのですし、汚す可能性の高いものは、こちら経由でした。



第二に使用人自身がほとんどの場合、こちらの階段で移動しました。ヴィクトリア朝において、使用人(特にハウスメイド)は「Unseen」「Unherad」、つまりその姿を主人たちに見られてはならない、声も聞かれてはならない存在でした。彼らが表階段を利用するのは掃除をする時や、主人たちの用事を果たすとき、或いは手紙や食事や紅茶を持っていくときなど(今回は新聞)、制限されています。



極端な例ですが、エドワード朝の屋敷での暮らしを再現した『MANOR HOUSE』では、メイドと女主人がすれ違うとき、メイドは女主人の顔を見ず、壁の方を向いて、道を譲りました。ルールとしてそのように定められていたのです。



このように、階級差は屋敷の中に厳然と存在しました。ただ、これは使用人の目からプライバシーを守る手段の一つだったとも考えられます。使用人に自由に歩き回られては、窮屈に思えたかもしれないのですから。



フットマン

ハキムというと、ある特定の世代の人々にとっては「筋肉質なホビット」という、トールキンに怒られそうなキャラクターが思い浮かびますが(ゴグレグは最高です)、『エマ』においてはインドの王子様です。今日が初登場、最初こそ古川登志男さんの声に聞こえましたが、違いました。



ここまで書いておいてハキムとほとんど関係ない話題ですが、ハキムの来訪をウィリアムに告げた人が、変わっていました。1巻ではスーツ・ネクタイの秘書のような人でしたが、アニメ版では使用人・お仕着せ着用のフットマンになっていました。こうして1巻を振り返ってみると、初期、ウィリアムの家には、フットマンらしき制服を着た人は描かれていなかったようです。



フットマンには様々なエピソードがありますが、彼らは複数名が手記を残しており、その生活はいずれも華やかです。それだけ、彼らを雇えるような人々は裕福だった、という裏づけになるかもしれません。(手記を残したのは全体のほんのごくわずかに過ぎませんが)



以前にこの日記内で取り上げたFrederic Gorstの文章の中には、あるメイドに思いを寄せていたものの、裏切られたなどというエピソードも記されています。こちらの資料とフットマンは、次回、5巻で扱います。



馬車

ウィリアムの屋敷には「厩舎」があり、複数台の馬車を所有しているようです。馬車を所有できる人は限られますし、その維持費は大きなものでした。所有しているだけで、ステータス・シンボルになりました。



小説版や『エマ』1巻では、この辺りは微妙な感じで、貸し馬車を雇っている描写もあり、屋敷の馬車が出払っていたり、目的地や用途で使い分けていたのでしょうか。



馬車を雇うので有名なところでは、ドラマ『シャーロック・ホームズの冒険』でしょう。ハンサム・キャブを雇い、出かけていくホームズのシーンはとても印象的です。『名探偵ポワロ』の時代には、「タクシー」に変わりました。



さて、自身の馬車をロンドン市内で使えた人々は、社交のシーズンにはその姿を顕示する為、ハイドパークのロットン・ロウ(王の道)などに馬車で出かけました。そうした姿は『エマ』4巻第24話「雨のロットン・ロウ」にて描かれています。



主役はエレノアと、彼女の姉モニカ。エレノアは友人と馬車に乗り、モニカも自身の馬に乗り、艶やかなその姿を披露しています。他に、映像では、後のエドワード七世、時のプリンス・オブ・ウェールズの愛人だったリリー・ラングトリーを主役にした『Lillie』では、この馬車道の描写が繰り返されました。王子と共に颯爽と走るLillieは正に、社交界の勝者でした。



馬車には刻まれた紋章によって社交上の優劣が存在し、成り上がりの人々は貴族などに道を譲らなければならなかったことでしょう。当時の馬車や、そうしたルールについては『19世紀のロンドンはどんな匂いがしたか』が詳しいです。



余談

細かいところは色々とあるかもしれませんが、歴史ではない、というところさえ忘れずに、楽しめればいいかと思います。当時の価値観は多種多様、資料に残っていないからといって、間違っていたとも限りません。



自分自身、上のように解説文を書いていますが、過去に作った同人誌の内容では、訂正や書き足ししたいところもとても多いです。知らなかったことや当時はわからなかったことなど、本当にたくさんあります。今でも学べば学ぶほどに、自分が知らないことが多いと、知らされることばかりです……



関連するコラムなど

・書籍:『19世紀のロンドンはどんな匂いがしたか』

・映像:『MANOR HOUSE』

・第一回目の感想はこちら

・第二回目の感想はこちら