ヴィクトリア朝と屋敷とメイドさん

家事使用人研究者の久我真樹のブログです。主に英国ヴィクトリア朝の屋敷と、そこで働くメイドや執事などを紹介します。

資料整理作業はGoogleに似ている

ウェブ進化論的な話?

ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる (ちくま新書)



再び同人誌制作に向け、ヴィクトリア朝メイド、使用人の資料整理に着手しましたが、ふと自分の同人誌制作プロセス、参考文献の整理の仕方がGoogle的であると気づきました。



Googleは無数のウェブサイトからのリンク数で、サイトの評価をします。リンク数が多ければ多いほど、「価値のある情報」があると判断し、検索の上位に表示します。いわゆる、投票数が多いものを選考する民主主義的な選別ですね。



だいたい、それは当たっています。



久我は、無意識的に、メイドさんの資料を探しているプロセスでこれを実践していました。最初は何かしらそのジャンルの本を買い、それから、多種多様な本の中で、数多く参考文献として取り上げられている(被リンク)文献を見つけます。



あくまでもこれは方法論のひとつですが、だいたい、この方法論は当たっていて、外れた本に接する機会は非常に少ないです。逆を言うと、それだけ数多くの本に取り上げられるような主要本は少ない、その主要な本を押さえてしまえば、ある程度の概要はわかるのかとも思えます。


自分自身を「Google化」

Googleはテクノロジで様々なページを比較、評価します。久我はAMAZONの力を借りるものの、結局、どの本にどの情報があるか、人力で探します。現実世界における被リンク的な点と、自分自身をINDEX化(どこにどの情報があるか記憶)していく点、ここが似ていると思います。



同じ本を読んでも、どこに重点を置くか、何を覚えているかは、個人でまったく違います。久我が面白いと感じるところと、他の人が感じるところは、違っています。そこをどのように覚えているか、また自分自身が情報を発信する時に、どのようにアウトプットするか、同じ情報を得ていても、視点や考え方が違えば、評価も異なります。



検索エンジンの相違も、そういうものだと思います。



そして、こうして雑多に本を読むことで、引用される参考文献だけではなく、どのような情報が、誰が、最もその分野において取り上げられるのか、貴重な情報を持っているのかを、判断して、同人誌の中で使っています。



そうするプロセスの中で、自分自身がその分野に関しては「検索エンジン」と化しています。「ヴィクトリア朝」「メイド」「カントリーハウス」というジャンルにおいて、どのような本に価値があり、またどこにどのような情報があるのか、わかるようになりました。



「情報を評価、判断し、優先順位」をつけられるようになった、のです。この自分が持つ情報をブログにアウトプットすれば、それはひとつのデータになり、Googleによって評価されます。こうした無数のアウトプットによって、人間自身がGoogle経由で繋がっていくのは、なかなか不思議なものです。



逆を言うと、Googleは、アナログ的な情報整理・情報把握の体系を、テクノロジで表現した一つの形なのかなとも。



そうした知識の連鎖が「他者の経験を、知識を自分のものとして、新しいものを作り上げられる」人間の進歩に繋がっているのを信じられる、それがネットに魅力を感じる所以です。



その一方、「情報に価値があるか」ではなく、「誰の情報が信用できるか」という評価については、検索エンジンでは評価しきれない部分があります。Googleは常に最適な回答を見つけてくれません。



例えば、ブログや要約・まとめサイトが、本来の情報が掲載されているサイトの文字を引用して、検索エンジンに引っかかり、検索のノイズとして、判断を迷わせます。



この辺りはテクノロジで解消されるかもしれませんが、ある程度、欲しい情報に到達するにはテクニックと時間が必要になる、しかし、すべての人がすべての情報に対して、そのようなコストを割けない、人は「人と言う検索結果」を活用することになるとは思います。



情報を見つけ、評価して、伝える。



少なくとも久我は、ヴィクトリア朝メイドに関して、検索エンジンよりも高い精度は持っています。そこがまた、人が作るメディアが、残る理由だとも思います。



「メディアとしてのブランド」や、必ずしも欲しい検索結果が見つからない人たちとのギャップを埋める存在として、Googleで調べれば欲しい情報が見つかる」のと同様に、「この人(このサイト)にいけば、情報が『簡単に』見つかる」という信頼の中で。商業的に生き残れるかは、別問題ですが。


将来的に資料収集・評価は容易になり、価値も上がる

話はまた少しそれます。資料を整理して、アウトプットしている時、頼りになるのは記憶とメモです。



「あのエピソード、どの本にあったっけ?」「これと似たコメントって、他のどの本にあったっけ?」、メモ書きについても、同様です。「いつ調べたっけ」「どのページだったっけ」など、何かしら思い出そうと努力します。



これだけの貧弱な情報で、一度読んだ本を再検索することが多いので、本当に、「あぁ、本がデータ化されていて、Googleみたいだったらいいのに」と思うことはしばしばです。



そうした夢のような話は、Googleが進めているプロジェクトで、夢ではなくなりつつあります。著作権の問題などクリアできないものは様々にありますが、既存の刊行されている出版物をデータに落とし、検索可能にしようとしています。Amazonアメリカもイギリスも刊行物の中身にあるワードでの検索が可能になっています。



すべての本がスキャンされて「あちら側」に格納されて検索できるようになったら



こうした点がより進んでいけば、資料本を作るのは容易になっていく、価値のあることだと思います。(資料本の必然性も薄れるかもしれませんが)



出版物の限界は、第一に紙面の制約があること、伝えられる情報は限られます。第二に、参考文献や引用の出典先を、その場で確認できないことです。



前に少し書きましたが、ほとんどの商業的な書物は、その参考文献を明示せず、それこそ大学生のレポート的に、参考文献の意見や文章を丸写しにしている、ということも珍しいことではありません。



何かしらの意見は必ず「ある前提」に基づいて、なされます。「根拠」が無い意見は、共感も判断も出来ません。そうした根拠の曖昧さを衝くのが、「無知の知ソクラテスです。



とはいえ、簡単に読みたい本に、いちいち、「この情報はこの文献に基づく」とか、「この意見は、この文献による情報を前提にしている」とか書くことは、誠実であっても、読む上ではノイズになり、本当に伝えたいことを伝えきれないリスクも負います。読者がどこまで求めているのか、にも左右されます。



しかし、すべてがハイパーテキスト化・ワンクリックでどこでも繋がるようになれば、こうした制約は消えます。ニュースサイトや、個人のコラムも、自分がどの情報に基づいて、どのような判断・意見を持つに至ったかを透明化し、読者は筆者と同じ情報に、クリックするだけで簡単にアクセスできます。



これだけで、情報の精度、信頼性は確実に向上します。ただの根拠の無い意見なのか、根拠があるのか、また同じ情報を見て筆者の判断が正しいか、正しくないか、受け入れられるか、受け入れられないかなど、今までは見えなかったものが見えてくるのですから。



そしてもうひとつ、重要なのは、上で久我が述べていたような「多くの本から参考文献とされる本には価値がある」という判断も、図書がデータ化されれば、簡単に実現します。ひとつの学術書なり、書籍が、「ブログ」「ウェブページ」のように、「情報の価値を評価するプレイヤーに参加する」のです。



図書情報に参考文献・引用という概念を埋め込み、すぐにアクセスできるような関係を築き上げてしまえば、被リンク的な発想を元に、価値ある情報を選別する手段になりえます。



・情報の精度を向上させる、参考文献の明示

・参考文献の明示による、被リンク評価の登場



問題があるにせよ、図書のデータ化という概念は、個人的には面白い、現実世界の不便さを、不確実さを、テクノロジが解消してくれる手段になりえると思います。



なんだか、長くなってしまいました。上に述べたような考え方は、以下に記した文章の中で書いている経験や出来事の中で出てきたものです。



ヴィクトリア朝メイドを語ること・『エマ』に思うこと

図解メイドの参考文献になりました



そして、通常営業に……