ヴィクトリア朝と屋敷とメイドさん

家事使用人研究者の久我真樹のブログです。主に英国ヴィクトリア朝の屋敷と、そこで働くメイドや執事などを紹介します。

存在理由が肯定されること

この前たまたま、アニメ化した『CLANNAD』を見ました。京アニが作っているということで画質は素晴らしいものでしたが、それ以上に微妙なキャラ同士の空気間が独特だったので、「原作やってみるか」と、PC版を買いました。



全年齢対象で、18禁ではありませんでした。



コミケでは「葉鍵系」(LeafとKey)と称される一大ジャンルでしたが、絵柄があまり好きではないことや、いわゆるギャルげーから遠く離れていたので、特に接することもありませんでした。しかし、今年は「食わず嫌いしない」「食ってから後悔すればいい」をモットーに、友人がオススメするものはかなりやりました。



ひぐらしのなく頃に

月姫

Fate



ここまで来たら、「じゃぁ、Keyの作品もいろいろやってみるか」とやってみたところ、案の定、泣きました。「泣きゲー」と呼ばれるだけあって、泣かせる作りがうまいです。



その後、アニメ版『AIR』を見たものの泣きはしても意味がわからず(解説ページでようやく理解)、さらにゲーム版『KANON』にも手を出し、次は新作を買おうかと画策中なぐらい、流れに身を任せています。はまれば、はまるもんですね。



仕事が忙しかったのもありますが、こういう理由でしばらくブログが放置されていました。



思ったことと言うか、以前書いたコラムに通じるのですが、結局のところ、これらに共通するのは「人の役に立つことで、誰かの力になることで、自分の居場所を得ている」ことなのかなぁと。



ほとんどのゲームがそうなのでしょうが、「主人公」は世界の中心にいて、存在意義があります。彼或いは彼女によって救われる、人生が変わっていく(或いは何も無かったりもしますが)、その反応を描き出すものがゲームであったり、ミステリ小説だったりすると思います。



世界を救うRPGの勇者にしても、ミステリ小説で殺人事件を解く探偵にしても、ギャルゲーにおいて苦悩を抱える少女の支えとなって一緒に歩く主人公(そのプロセスか結果が恋愛要素)にしても、本質的には「存在することで、他者の人生を変える役割」を担っています。



自分がいるから、何かが変わる。



これが、こうしたゲームの気持ちよさなのではないかと。『Fate』においても主人公の衛宮士郎「正義の味方」であることを志しました。しかし、物語中、そうした「正義の味方」は「救われるべき不幸な存在がいて存在しえる」「守りたい人しか守れない」と、矛盾を指摘されます。



その結末と答えの出し方はゲームのなかに委ねられていますが、ゲームのシナリオにルートが幾つもあるように、「選ぶことで救われる人」と、「選ばれないことで救われない人」がいるのも確かです。(たいていのゲームは主人公ハーレム状態なので、アニメ版において総花的に全キャラクターを扱おうとすると、どうにもならない状況に陥りもするのですが)



ただ、そこまでの視点で見ると、別にゲームに限らずとも、いろいろと現実に機会は転がっているのかなと、以前書いたコラムにつながります。


永遠の日常、部活、メンバー、意外なところで『蓬莱学園』と言うコラムでも書きましたが、「自分がそこにいる理由」「仲間や環境の中で、居場所がある感覚」は生きる上で大切なものです。



KANON』や『CLANNAD』においてはその辺りが強く感じられて、シナリオの中では恋愛要素よりも、「繋がりの中に人がいること」を、感じました。逆に、何かを選ぶことによって、他の可能性が切り捨てられていくことに痛みもあります。





何が言いたいのかよくわからなくなりましたが、きっと、自分の人生でも気づかないだけで、いろいろな機会が転がっているとは思います。まずその為には「自分から動く」必要があります。



誰かに働きかける、反応が無くても続ける。その多くの中のどこかに、響くものがあるはずです。待っていたって、何も起こりません。



それはきっと、欠けたパズルを満たすような。



創作において、そういう世界を、描けるよう頑張ります。日常でも頑張りますが(苦笑)