ヴィクトリア朝と屋敷とメイドさん

家事使用人研究者の久我真樹のブログです。主に英国ヴィクトリア朝の屋敷と、そこで働くメイドや執事などを紹介します。

永遠の日常、部活、メンバー、意外なところで『蓬莱学園』

涼宮ハルヒの憂鬱』のアニメを見て思ったのは、「久我は部活が好き」だなぁということです。別に部活に限らず、「ライトスタッフ」というのでしょうか? はまったマンガである『パトレイバー』も『帯ギュ』も日常生活を大切にしつつ、適切なメンバーがそれぞれに個性を発揮し、魅力的な世界を描いています。



そこには、「永遠に続くかもしれない日常」があって、そこで過ごしたいなぁと思える作品なのです。『げんしけん』もそういう雰囲気、なんでしょうかね? 部活とかサークルとかの作品は、そういう温度が好きですし、そうでない題材でもやはり「この不可欠なメンバー」というものには憧れます。



使用人の話を描いていて、作りたかった世界はまさしくその「ライトスタッフ」ですし、会社で働いていて「どれだけいいメンバーに出会えるかな?」なんて思うこともありますし、「生きることは、誰かにとって不可欠なメンバーであること」とも感じます。



という話を土曜日、友人と帰りの電車の中で話をしましたが、翌日の今日、『震空館』様のサイトで、『蓬莱学園』の話を引き合いに出されて紹介されていた、「らき☆すた」に流れている時間を、失いたくない自分がここにいる。というコラムを読みました。



面白さについて言及されていますが、久我にとって大きかったのはこういうことを考えていた頃に、『蓬莱学園』の名前を見たことです。(飲みの席でも「リプレイのテープが出てきた」「処分に困ったけど、今度、みんなで集まって聞こうか?」という罰ゲームの話もしました……)



かつて大学時代、TRPGサークルに所属していた久我は、残念ながらPBM(手紙で行うTRPG)時代の蓬莱学園には、リアルタイムで参加できませんでした。しかしそれでも、TRPGで出て以降、資料集を買ってかなり遊びました。登場人物のほとんどがPBMで活躍したキャラクター、というのは非常に珍しい作品だったと思います。



あれには永遠の日常的な、けれどいつでも卒業もありえる、終わりなき文化祭的な雰囲気は感じます。『蓬莱学園の疾走』は読んだことがないので、読んでみたいなぁと思います。



で、いろいろと話が飛びますが、TRPGっていうのは「役割を演じる」ゲームで、それぞれが補完的な役割を演じるのに大きな意味があるような気がします。必然的にメンバーは「不可欠」になり、「ライトスタッフ」(この言葉は「パトレイバー」経由です。そういう映画があります)になるのではないかなぁと。



相互に補完しあって、絆が生まれていく光景は素晴らしいです。



そこで話が『涼宮ハルヒの憂鬱』に繋がるかもしれませんが、自分が所属する世界(職場・組織・部活・サークル・友人関係)の中で、明確な役割がなかったり、キャラが立っていなかったりすると、「そこにいるだけで埋もれてしまうこと」になってしまいますね。



やっぱり、その他大勢よりも、「ライトスタッフ」でありたい。



ハルヒにおいて感じたのは、そこの強い気持ちでしょうか? その他大勢であることに疎外感を味わった彼女は新しい世界といえるSOS団を作り、メンバーを集めた。集まったメンバーにそれぞれ役割や受け持ちはありますが、個々にポジションがあるのは居心地がいいと思います。



学生時代が「卒業」があって、「いつか学年がスライドすればその頂点」に立つ仕組みがあり、そこで「その小さな世界の中心」的な役割を交代で味わえるシステムなのか、新しいサークルが作られたり、会社が立ち上がったりするのは、「世界の中心でいたい」心理なのかと。



誰もが自分の人生の主人公といわれながら、現実は全然そうではないことの方が多いですが、自分にしか出来ない役割・立場を見つけて、その価値を認めさせれば、いつのまにかその世界の中心に近づいていけるはずです。



或いは恋愛なんてその究極です。一対一、その役割ほど不可欠なもの、自分の存在価値が認められるものはありません。人はそうして、自分にとっての「適切なポジション」「自分の世界」を作っていくのかなぁと、あんまり深く考えず、適当に書いてみました。



そして、そういう個々の才能が一箇所に集まって、個人では出来なかった何かを生み出す瞬間に立ち会いたいとも思うのです。それが、同人活動を広げてみたい欲求の一つにもなります。



先ほどのコラムの中で、「ライブ」の話が出ていましたが、久我にとって同人活動はまさしく「ライブを見る側ではなく、する側になりたい」意識の表れです。コミケに一般参加したとき、正直なところ、欲しい本も特になく、知り合いもいなかったので、参加した後には何の残りませんでした。しかし、実際に自分が参加してみると、まったく違います。



同じように、例えば友人の吹奏楽の演奏、或いはライブの激しい演奏を見て、そこで心を動かされたり、感動して拍手する人たちを見ると、「自分も、そういう側でありたい」と強く思うのです。見ているだけではつまらない、その舞台にいる人、たまにしか会わないはずなのに個々が最適な役割を果たして演奏して、ひとつの音楽を作っていく姿には憧れます。



実はほとんどの物語って、そういうものなのかなぁと。



最後に、ひとつ思い出した映画があります。ロビン・ウィリアムズの『いまをいきる』です。あれも、素晴らしかったです……