ヴィクトリア朝と屋敷とメイドさん

家事使用人研究者の久我真樹のブログです。主に英国ヴィクトリア朝の屋敷と、そこで働くメイドや執事などを紹介します。

時間と命を賭して作家が描いた作品を食べて、生きている

タイトルは、最近思ったことです。友人のライブを見て、それまでに培った技術を使い、作品へ費やした時間とそこへの想いを感じて、それが表現される瞬間に立ち会うことは、その人の人生の時間と向き合うこと、そしてその人の時間を自分の時間を代価に、消費しているのではないかと。



どれだけ費やした時間が、人生が、あの短い時間に集約されているのか、いわばその蒸留されたものに接することは、贅沢でもあり、ライブに足繁く通う人はその場で表現される命の燃焼をも味わっているのではないかと。



同人会場も、そうですね。生活しつつもわざわざ時間を作り、考え、悩み、描き出して、形にする。そこには人間の有限の時間が使われているわけで、時間を使う観点で言えば「命」を消費している、その結実が、生きてきた時間の結果がイベント会場には、本の形で存在しています。



広げていくと人が作るすべてのものになりますが、そういうふうに、命を削って作られたものに囲まれて生きて(誰かの仕事の成果=誰かの時間を費やしたもの)、消費して生きて、だから、食べ物を食べることを「命をいただく」といいますが、人が表現しているもの、人が作ったものを入手したり、浴びること、サービスを受けることは、その瞬間、自分自身もお金や時間を代価としていますが、食事と同じように「命をいただく」ことなのではないかと感じました。



ここからネットに話を広げたいのですが(表現が表に出るまでのプロセス、出てきたものに接することの時代による変化)、ちょっとまとめきれないのでまたの機会に。